德川美术馆
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名茶勺 泪
天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休(せんのりきゅう)は、自らこの茶杓を削り、最後の茶会に用い、古田織部に与えた。その後、古田織部(ふるたおりべ)はこの茶杓用に、長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌(いはい)代りに拝んだと伝えられる。筒は総黒漆塗で、これを垂直に立てると、いかにも位牌らしくみえる。 茶杓は白竹で樋(ひ)が深く通り、蟻腰(ありごし)で、利休の茶杓の中でもとくに薄作りに出来ている。
千利休-古田織部-徳川家康(駿府御分物)-初代義直と伝来した。「玩貨名物記(がんかめいぶつき)」所載。
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三岛桶
附属の細川三斎(ほそかわさんさい)の書状に「昔千道安所持仕候三島のおけ茶碗」と記され、江戸初期に三島(みしま)とはっきり呼ばれたことの確認できる唯一の茶碗である。「三島」という名称は、その文様が三島神社の暦に似ているためとする通説の他に、今日の韓国巨文島が、昔、三島と呼ばれた貿易の要津であったことに発したとする積出港の地名説とがある。伝来からも、また鼠色の胎土に白象嵌で文様を施した、いわゆる高麗象嵌青磁技法を継承している点からも、三島と呼ばれた茶碗の原型と考えられる。桶形で素直な姿をしており、三斎の書状でも「天下無双の名物に御座候」と称えている。
千利休-千道安…初代義直と伝来した。「玩貨名物記」所載。
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名物古瀬戸茶入(めいぶつこせとちゃいれ)の双璧と称賛されているのが、「鎗の鞘」と「横田」である。「横田」は所有者の名と思われるが不明である。大振りで背の高い寸胴形で、胴の中ほどに斜めに大きな篦痕(へらあと)がある。総体に渋紙釉がかかり、梨子地状に銀色に発色する斑点が無数にあり、荘重な味わいの中に華やかさを含んでいる。
花兎文古金襴(はなうさぎもんこきんらん)(角倉金襴類裂)の仕覆が附属する。足利義政、義昭、織田信長を経て豊臣秀吉に伝わり、天正13年(1584)小牧長久手の戦いの和議の際、秀吉から家康に贈られ、更に初代義直に譲られた
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白天目茶碗(重要文化财)
白天目茶碗(はくてんもくちゃわん)は、天正元年(1573)11月に織田信長が催した茶会で用いられた事例をはじめ、中世末期から近世初期にかけての茶会記に、その使用が記されている。 武野紹鴎(たけのじょうおう)所持と伝えられるこの茶碗は、天目といっても建盞(けんさん)茶碗に見られるような厳しい姿ではなく、側面に膨らみをもった碗形である。この穏やかな形姿と口縁部の覆輪(ふくりん)の金色、側面の清楚な白釉、見込に溜まったビードロの黄緑色と、各色が見事に調和のとれた発色をしている。これまでは単に美濃で製作されたと説えられていたが、近頃この茶碗と同様な破片が多治見市小名田窯下窯から発見されて、同窯がこの茶碗の焼かれた窯である可能性が出てきた。
武野紹鴎からその孫の新右衛門、初代義直と伝来した。「玩貨名物記」所載。
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