安房守日(真田豪语录)

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大盐平八郎 序 大阪处日本之中,恃纪淡、明石两峡险阻,挟濑户内海地利,贴近京圻而四通八达,是天下襟喉,常为王者必争要地。庆长二十(1615)年,战国之末,一场久经酝酿的大决战便于此打响,成王江户幕府灭绝丰臣氏,降服诸侯,而一天下,登上权力巅峰;从此世间治平便罢,凡值有患,则大阪必先有不测之忧。 天保四(1833)年,奥州发生极端天候,数个月后,东北一带饥火中烧,地方性供求缺口终于殃及全国,劳作者的生存状况进一步恶化。于是,八(1837)年春二月,乘各地一揆之风,大阪近郊农民、城市贫民共同体就在元和偃武[1]以降的两百余年太平无事后,再度武装蜂起,欲行动乱,以拯救民难于危。其中涉及尼崎、姬路、筱山、高槻、淀、郡山、岸和田等近畿诸侯,或遣军镇压,或受命救援;亦震骇京都所司代[2],甚至惊动幕府,后续影响遍及全国。整个动乱虽仅经半日即遭镇压,但却奠定下民权运动的社会心理基础——史称“大盐之乱”,至今闻之仍发聋振聩。其魁首,就是大阪东町普请与力[3]、阳明学者、日本民权开宗——大盐平八郎。 议及德川体制末期,亦即封建秩序苟延残喘,国族处于“内忧外患”的巨大威胁中、步履蹒跚地求新图变的时代,上至治体动摇摧坏,下至社会交煎不宁,其中又惟“骚乱”(そうらん)者最不可为。名为骚乱,而其实是政经体系间的逻辑背反和社会群体生活中普遍性矛盾冲突的具体外化产物。历史学者黑正岩就曾以“封建主从关系中的精神与思想要素”、“封建经济活动中的技术与生产要素”为基础,将骚乱界定为三种[4]:其一,是掌握最高行政权的执政阶级即武士阶级的内部的骚乱——产生于权力分配冲突下的党争、御家骚动剧烈,及从中分化出具有暴力对抗性质的仇讨、暗杀等;其二,是大多数的被统治或被压迫阶级的内部骚乱——据时序、地域特征表现各异,主要由自然资源与社会财富配置不公下的阶层贫富差距、行业贫富差距、地域贫富差距等诱因点燃;其三,是被统治的下位阶级针对上位统治者的骚乱、甚至暴动(但并非是武力夺权)——其中又分二类,一是前中期不具革命性质,但带有较强阶级色彩的改革要求,如贫农阶级的“越诉”、町人的捣毁运动等;二是后期(幕末时期)富有破坏性,亦即试图反抗既定封建制度、推翻幕府统治,以及新政后否定武士组织及其社会功能的运动。 尤以江户时代中后期,日趋败坏的政权结构和封建式经济剥削体制,给渐次呈现出近代化、商业化的农民、农村和农业带来“物质和精神的双重痛苦”[5],因此,导致农民阶级针对执政阶级和剥削阶级(两者往往是一体的)的骚乱事件的频发性、破坏性和革命性空前跃升。自大盐之乱迄幕末,暴民蜂起,动乱星驰,反抗运动达到高潮。 上 大盐平八郎的祖先波右卫门义胜,是“战国阿斗”今川氏真之子。永禄三(1560)年五月,“东海道第一弓取”义元被袭杀于桶狭间,是为大族今川氏颠末之始。其后又逢甲斐武田氏违弃盟约、背义侵来,连年蚕食下,今川一脉终于走向衰亡。始基溃决,主家沦倾,波右卫门便前往濒临的冈崎,与挚友关系的松平甲藏、本目权右卫门、尾崎卫门等人出仕德川家康。天正十八(1590)年,小田原合战爆发,波右卫门攫戾执猛奋战于足柄山,在家康马前毙敌足立堪平,遂受奖家宝,[6]封邑伊豆国冢本村。不久后又改仕于家康六男忠辉,在越后柏崎城任职。嗣后再随家康九子义直移居尾张,食禄二百石,改姓“大盐”。 宽永二(1625)年二月,波右卫门走到了此世人生的尽头。元和年间,其季子迁往大阪任町奉行与力,是为大阪大盐氏之初代。 当时的大阪,分东西两町。町奉行各领“与力”三十骑、“同心”[7]五十人,奉幕命行事,是町内唯一的武士组织及最高掌权层。观其权力更迭方式,表面是“权限一代”、“不可荫籍”,实则因循世袭制而类似于谱代席模式。通常,与力食二百石、折合现米八十石,知行五百坪;同心领粮十石三人扶持,知行二百坪。大阪町的奉行地包括天满地区的与力町、南同心町、北同心町和川崎町。[8] 及宽政十一(1799)年五月十一日,大盐敬高(平八郎养父)撇下七岁的平八郎和亲子忠之丞,享年仅三十而去世;翌年七月二十五,忠之丞早殇,同年九月二十日,平八郎养母清心院妙义日净殁世。降至文政元(1818)年六月二日,养祖父政之丞死,享年六十七。[9]是岁,平八郎娶桥本忠兵卫之妹“桥本ひろ”(后改ゆう)为妻,并在町内袭任祖职,即所谓“嫡孙承祖” [10]。 公元一七九三年,即宽政五年的旧历正月廿二日,平八郎诞生在大阪天满町。具体记载见于其自作之诗序:“予诞辰即宽政五年癸丑春正月二十又二日矣” [11]。(而考其生地,则有八〇年代前颇具影响的“阿波出生说”[12],后经指摘,兹从头简叙,择“大阪出生说”用之。) 这一年的七月,幕府老中松平定信为弥缝体制危机而发起的“宽政改革”终于难逃失败命运,其不仅未及完成阻滞资本性商品经济、重构封建小农水稻经济并挽救封建剥削体制的任务,反而招致各地商家、上层武士和广大市民的不满,[13]又适逢天候不济,霖雨、早寒、洪水、火山喷发竟一时并至,全国的自然经济发展陷入停滞状态、财政基盘的崩溃导致权力机构的腐败丛生、民生凋零、社会矛盾凸化,百姓一揆也就在全国范围内崛起了。 而我们年幼的平八郎,正生于如此险衅的世界,及夫童龀(七八岁)父母兄弟又相继见背,可谓黯淡童年;幸有祖父愍其孤弱,躬亲抚养,行年二十,祖父又年老去世,举目无亲无戚、家祚日渐衰薄,又可谓命途多舛。然而,如此挫折不顺的过去却与其日后奇崛雄强、坚傲不屈的叛逆精神和峻刻性格并非相向一致。 时间推进至他的童年时代,就有了二三传说。究其性格,又通常定义为“两面的极端性”:一曰天资聪颖、早慧好学。平八郎幼年发蒙时,虽不曾入泮进学,却因祖母喜好儒典,耳濡目染下,竟也能自行识文断字,“悉听祖母读来数遍,便能成诵”;其二则是同情弱苦、刚健矫捷,便是说他时常地欺负乡邻的膏粱子弟,叱责当地商家虚伪聒噪,甚或在幕府代官出行途中打破其高张提灯[14]。 且无论哪样,放到今天来说也是反逆得厉害,出奇得早,盖谓之不凡人生的第一步吧。 历经岁月的泼洗,文化四(1807)年的平八郎年及舞象(十五岁),告别童稚,步向水深莫测的现实人生。用他自己的话说,“吾志有三变焉,年十五尝读家谱”,此即其中第一变。同时,他慨然以“祖先(波右卫门)当大阪冬夏役,既耄矣。不能从军以伸其志,而徒戍越后柏崎堡”、“祖(养祖父成余)从事刀笔、伍狱卒之市吏而已”为耻,意图“以功名气节继祖先之志”,但却因“父母俱殁”而“不得不早承祖父职也”,[15]可见他又是被迫承续祖业的。 过去的数年中,他拜筱崎应道为师,学习句读,全面接触汉字文化,“十二三岁则通晓四书五经”;[16]又师从林述斋(大学头,林家中兴之祖)钻研儒术,凭借天资聪慧和后天的刻苦励精,在训诂、诗章等方面获得长足进步,其暴烈骄慢的脾性也日益淡息下去了。 花却两年专事学问,十七岁的平八郎自认学成,便不再醉心文本艺术,转而向柴田勘兵卫学武术,修佐分利流枪法。晋身为入室弟子后,又把剩余精力朝着中岛流炮术及东方传统军制兵法两方面发泄。(其知识系统的结构在当下看来也是文武皆能、全面发展的)不久后,他便热血激昂地挑战了关西各地武师,时称“关西第一枪”。[17] 又一年,沙俄屡掠虾夷之地,英美坚船频访筑紫、常州。德川幕府为此惊慌失措,急令修复浦贺城岛炮台、新建富津丸等洲崎级船舰,力图强化海防。平八郎见状,就以见习与力身份向町奉行坂部能登守广高进谏,宣称“今士风渐颓,须以武兴业”;推及江山社稷,更是“人人习武,一旦夷变(这是一种典型的“华夷变态”情节,但非本文义务,暂不赘述)则方可迅即振作”。此种论调在内忧外患人人自危的时代恰恰是迎合时宜的,也自然博取到官方支持。因其思想锐芒直指江户士道疲软之症、言辞自负恢廓,又借于官方喉舌广播之能,短时间内便激起大阪市众的习武热情。 从此后,平八郎的政治理想愈是朝着有意识地向外国强权、外部强权采取反抗和挑战的方向发展,他“慨然为民”的价值理性情结也逐日积累蓄艾,直至以不可预知之度爆发出来。 光阴好似一只巨大神鸟,忽闪着外白内黑的神奇羽翼,无情地将众生推向未来;穿越时空孔隙,平八郎也不知不觉地从少年步入青年。 备考: [1] 大阪冬夏役后,德川幕府攻灭丰臣氏,统一日本岛,建立起长达两个半世纪的相对和平的新时代。 [2] 江户时期维持京都治安的机构或其官员。 [3] 作为奉行、所司代、城代、大番头、书院番头的部属、指挥同心(见注7)分掌庶事的职务。 [4] 《社会经济史研究》第3卷第8号。黑正岩,日本评论社,1933。 [5] 同上。 [6] 参《小田原战记》:“家康尝赐以持弓”。 [7] 幕臣的底层役职,为代官秘书、家仆等。 [8] 平八郎的生地住所都是天满桥筋长柄町南侧、所谓的“四轩坊”。 [9] 其养父和养祖父的殁日、享年,见于各自墓碑。前者书“嫡孙平八郎建是碑”;后者书“长子源后素志之”。 [10] 参《唐律疏议•名例律》称期亲祖父母条:嫡孙承祖,与父母同。《疏》议曰:依礼及令,无嫡子,立嫡孙,即是嫡孙承祖。 [11] 《大盐平八郎》。幸田成友,东京创元社,1975。 [12] 参《大盐平八郎传》:“平八郎生于阿波美马郡胁町岩仓村新町”。石崎东国,大镫阁,1920。 [13] 天明七(1787)年至宽政五年的幕政改革。主要政策目的是重农抑商、巩固加强农业经济和幕藩体制,修复封建秩序。 [14] 高张提灯,一种悬挂于长竿上的灯笼,常用于官员出行。据传享和元(1801)年二月五日,大阪天满桥附近遭火灾,时任代官的筱山十兵卫却严重渎职,毫不作为。是夜,年仅九岁的平八郎在十兵卫车前将其高张灯笼打破。 [15] 均参《寄一斋佐藤氏书》。 [16] 参《洗心洞札记》。山田准,岩波书店,1940。 [17] 参《大盐平八郎传》“文化六年己巳先生十七岁”章。
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算是译述吧。。。 主要的原文资料在这里,老豪看看吧:http://www1.vecceed.ne.jp/~swtamura/
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    「オオキミ」から「天皇」へ  佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、一九八九年二月に邪馬壹国時代のクニの一つらしいと報道されてから、五月の連休までに一〇〇万人の人々が押し寄せた。わたくしもこの年五月四日に人波にもまれながら見学した。この日の人出は一〇万人であったという。  吉野ヶ里遺跡は環濠集落と墳丘墓からなっているが、『魏志倭人伝』の記述通りの「楼観」の存在、有柄銅剣・管玉などの遺物の発見などで、三世紀のクニの一つであることは確実である。わたくしは登呂遺跡の近くに住んでいたことがあるが、登呂は「ムラ」だが、吉野ヶ里は「クニ」である。「宮室」らしき建物の一角もあり、墳丘墓はこのクニの王の墓であろう。北側の神社もそうであろう。なおこの時代には、王はいても、天皇なるものは日本列島のどこにも存在していなかったことに注目されたい。  こうしたクニの王は五世紀ころになると「キミ」と呼ばれていたらしい。近畿地方も同様である。近畿地方にもたくさんの「クニ」があり、激しい戦争を戦っていた。そのなかから「クニ」の首長である「キミ」を従えた「オオキミ」が登場してくる。 ――  「オオキミ」は埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘に「ワカタケル大王」、とあることからも、日本列島内で使用されていたことは確実とされる。この鉄剣銘にある「辛卯年」は四七一年か五三一年とされているから、五世紀から六世紀ということも当っている。ただし「ワカタケル大王」がだれかということについては、雄略天皇(オハツセノワカタケ)説が有力だが、いくつか疑問がある(六章参照)。 ★ このほかにも熊本県江田船山古墳出土の太刀銘の「治天下ワカタケル大王」、和歌山県隅田八幡宮画像鏡の「男弟王」(オオト?)などの金石文(金属や石に記された文字)がある。また奈良県石上神宮の七枝刀の銘には「倭王」とあり、千葉県市原古墳出土の鉄剣銘には「王賜」とある。文書史料では、五世紀の中国南朝の宋や梁へ遣使した「倭王」たちがいる。  『隋書倭国伝』によれば、六〇〇年倭王は隋の文帝に対し「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という国書を送ったという。文帝は「蛮夷の書、無礼なるものあり」と激怒したが、しかし答礼使は派遣した。その答礼使は倭の都に至り倭王に会う。その報告書には「倭王、姓は阿毎、名は多利思比孤(原文には多利思北孤とある)、阿輩鷄弥と号す」(岩波文庫・石原道博氏新訳)とある。倭王は男王で、後宮の女性六~七〇〇人を持っていた。 ★ 隋の文帝は「蛮夷の書」と激怒したが、隋は南北朝を統一した王朝である。南北朝時代は、南朝は漢族の国が六王朝つづいたが(六朝時代)、北朝は五胡十六国という北方諸民族の国々である。五世紀には倭国の五人の王が南朝の宋に朝貢していたことは有名である。隋は五胡の一つで鮮卑族というツングース系民族の王朝であり、漢族から云えば「蛮夷」である。東夷である倭国からいえば、漢族の南朝は尊重すべきだが、北朝に対しては対等な意識をもったとしても不思議ではない。  答礼使は「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、あぐらをかいて坐わり、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という」と報告した。「天子」というのと、「天を兄とし、日を弟」とするのとどういう相違があるのか分らないが、太陽が「弟」すなわち男性として捉えられるのは面白い。天皇家の始祖神である天照大神は、女性神であるからである。  『日本書紀』によると、六〇一年に大和国家は隋に遣使している。この時の国書には「東の天皇、西の皇帝に白す」とあったという。この時の天皇は豊御食炊屋姫(いわゆる推古天皇)という女帝である。そうすると疑問が生じる。このころ政治の実権は摂政である聖徳太子(推古天皇の甥)にあり、かれが隋使に会ったという説もある。しかし聖徳太子の名は厩戸皇子であり、タリシヒコではない。隋使に「オホキミ」と称して会ったのはだれだろうか。なお天皇家の姓がもともと「アメ」氏であったのは、あるいは事実であったかも知れないが、その伝承は記録されていない。  さて国書には本当に「東の天皇」とあったのだろうか。「天皇」号の初例が推古天皇の時に始まるという説は、右の日本書紀の記述も根拠にしているが、金石文での傍証が今一つたしかではない。むしろ中国側の「天子」という記録の方が正しいのではないかと思われる。「天皇」は後世の潤飾ではないか。     道教と天皇大帝  中国には三皇五帝伝説がある。三皇とは天皇、地皇、人皇で、別説では伏羲、神農、黄帝という。五帝とは少昊、顗頊、帝嚳、帝尭、帝舜で別説では伏羲、神農、黄帝、帝尭、帝舜という。女媧を含めている場合もある。皇と帝は別系列の存在で、皇は神であり、帝は人王である。これを統一して自らの称号としたのが、秦の始皇帝である。  天皇、地皇、人皇は神格化され、天皇大帝が地皇・人皇の上に立ち、太一神となる。そして天の一点に居て、動かない北極星を神格化し、全天地を支配する存在に祭り上げて行った。  古代の中国における最高の神は、昊天上帝(または皇天大帝)と呼ばれていた。ところが天皇大帝が最高神として発展してくると、両者の調和がはかられた。北極星信仰は、日本では北斗・北辰信仰の基となる。さらに老子を神格化した元始天尊(太上老君、元始天王、玉皇、玉皇大帝)が崇拝されるようになると、天皇大帝はある地域(東方)の支配神に格下げされてくる。  道教は後漢末の三張道教(五斗米道)にはじまり、大いに民衆をつかみ、三世紀には黄巾の乱の主力となって、後漢の滅亡、群雄割拠を招いた。魏・呉・蜀の「三国志」の時代を経て、中国は南北に分裂し、五胡十六国の北朝と、江南地方に逃れた漢民族の南朝(六朝時代)となるが、南北いずれでも道教は仏教とともに尊崇されていた。ただし王朝によっては道教が優勢であったり、仏教が優勢であったりした。江南地方では茅山道教が発展し、五世紀ころに教義が整えられた。  皇帝が天皇という称号を使用するのは、道教の隆盛と関係があり、六七四年(上元一)に唐の高宗と則天武后が天皇・天后と称したのが最初である。日本の大王の天皇への改称が、それ以前とは考えにくい。     江南地方=南朝との交流  南北朝時代の中国 日本古代国家の原型は、四世紀から六世紀にかけての中国の南北朝時代を模倣している。  三世紀の魏・呉・蜀の「三国志」の時代は、魏の将軍司馬氏の晉によって統一された。ところが四世紀に入ると、北方の騎馬民族がぞくぞくと南下し、晉は滅亡、江南に逃れた一族が東晉を建国した。ここから南北朝時代が始まる。  南遷した漢族が東晉を建国した江南地方は、かって呉とか越とかいわれた地方である。越は呉越、甌越、越、南越、駱越、越南など多くの地区の人々からなり、「百越」といわれていた。  倭人はもともと呉の太伯の子孫と称していた。『魏略』逸文・『晉書』・『梁書』などに、倭人は黥面文身、自ら太伯の子孫という、と記されている。呉の太伯は、周の太王の子で、弟が即位したため、南方の荊蛮の地に出奔し、その風俗に染って断髪文身し、国を句呉として王となり、呉太伯といわれたという。  黥面文身は『三国志』の魏志倭人伝の記す倭人の風俗である。これは大魚水禽を捕らえる漁撈のためらしく、『漢書地理志』の粤(越)の記述にも、文身断髪してもって蛟龍(水中の龍)の害を避けるとある。また魏志倭人伝では婦人が単被の貫頭衣を着ているとあるが、『漢書地理志』でも粤(越)人は単被の貫頭衣を服しているとある。越と倭は同じ風俗であった。  東晉は三九九年からはじまる道教集団の孫恩ついで盧循らの反乱で大打撃を受け、反乱の鎮圧で実力を付けた軍人の劉裕が、四二〇年宋王朝を建てた。このころ北方では北魏が全盛期であった。宋はやがて斉となり、梁ついで陳となる。東晉をはじめ六つの王朝の興亡を六朝時代という。  この南朝に倭国が遣使している。いわゆる倭の五王である。これは倭王讃の四一三年の東晉への朝貢にはじまり、宋への讃・珍・済・興・武の朝貢である。倭王は安東将軍、安東大将軍、鎮東大将軍へと昇進しつつ、朝鮮半島南部への支配権を認めて貰おうとしている。この時期には、北魏に脅かされた高句麗や百済も宋に遣使し、倭王よりつねにランクの高い将軍に任命されている。倭王の記事の最後は、五〇二年の梁による征東大将軍への任命である。この倭の五王が大和朝廷の王であったのかどうかは、議論があるが、南朝への遣使は、南朝の六朝文化の大量輸入をもたらしたことはたしかであろう。  この南朝で茅山道教の教典が作られ、儀式等が整備されているのである。  こうした南朝の動向が、日本に影響を与えないはずはなく、とくに五世紀の南朝に朝貢した倭の五王の時代以来、道教の教義や儀式が日本に将来され、そのなかに天皇概念もあったことと思う。     道教の医学と錬金術  道教の方士たちは、怪しげな術を用いて、不老長寿の薬と称するものを作っている。秦の始皇帝の依頼により、不老長寿の薬を求めて山東半島から東方の海へ乗り出した徐福もその一人である。かれは童子童女三〇〇〇人を伴ったといわれ、その到着地が倭のいずれかの地という。実際日本列島のあちこちに徐福伝説が残っている。方士たちの製薬はかなりいんちきなものが多かったが、その副産物として本草学が発達し、漢方医学の確立がもたらされた。  また方士たちは鉱物を高熱処理し、薬品の金丹や黄金を作りだそうと、種々の実験らしきことを行なっている。丹砂から朱を作り、さらに水銀を作るのである。ヨーロッパ中世の錬金術士たちと同じで、大半は失敗に終わるが、副産物として、金属器製作や陶器生産の大きな進歩がもたらされた。われわれは金属器文明といえば、黄河流域を考えがちだが、南北朝時代には、江南地方の方が金属器製作は盛んであった。日本にもたらされた鏡や刀の多くが、江南地方製作といわれており、四世紀の有名な三角縁神獣鏡でさえ、倭に渡来した江南地方の工人の作といわれるぐらいである。  奈良県天理市の石上神宮にある七枝刀は、百済王が倭王に贈ったものとして有名であるが、七つの枝そのものが、道教の観念から生じたものである。しかも「五月丙午」「正陽」という吉日時に制作したとか、「百錬」「辟百兵」という文言自体、道教の影響とされている。しかもこの刀は、百済で製作されたのではなく、道教の盛んだった江南地方か山東半島で製作されたのではないかと推測されている。  五世紀に南朝に朝貢していた倭国は、倭王の称号をえるためにのみ朝貢していたのではない。おそらくは江南地方の豊かな文物と進んだ技術を入手し、その基盤となっている思想や宗教、日常的な習慣も取り入れたはずである。しかも多くの所伝にあるように、かなりの江南地方の人々が、倭国に移民しているのである。江南地方を呉とか越という。呉から来た衣服を呉服といい、初期にもたらされた漢字の音を呉音と言うのも、また北陸地方を越というのも、なんらかの関係があろう。     北魏――日本古代国家の原型  一方三国対立のあと華北を制した騎馬民族を五胡という。匈奴、羯、鮮卑、・、羌の五胡で、かれらは次々に十六の国を作ったから、五胡十六国という。匈奴の前趙・夏、羯の後趙、鮮卑の前燕・後燕・北魏、・、羌の前秦・後秦などである。  四世紀後半から五世紀の初めに、五胡を統一したのが、鮮卑の拓伐氏の北魏であり、その後継王朝の東魏・西魏である。北魏は平城(山西省大同)を都と定め(のち洛陽に遷都)、皇居を紫宮、その正殿を太極殿とし、神亀という元号を用いた(東魏は天平を用いている)。また皇帝の子孫は臣籍降下させて、源氏の姓を与え、それを皇室の親衛隊(羽林)とした。始祖の拓伐力微は神元皇帝と称し、父を聖武皇帝と諡名した。北魏は鮮卑族貴族の八姓と漢族四姓(五姓)を第一級の貴族とし、その下に多くの姓、族、傍系の家という貴族制のヒエラルキーを施行した。これを「姓族詳定」という。  日本では奈良の都を平城京というが、その奈良時代中期に、聖武天皇が天平、神亀の年号を用い、大極殿で政治をとった。次の称徳天皇の時には、皇居を紫微宮とし、紫微令を任命している。平安時代初期の嵯峨天皇(この嵯峨の名も北魏に由来するという)は、親王の一部を臣籍降下させて、源氏とし、以後諸天皇がこれにならって、多くの源氏が生まれた。清和源氏・宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏などである。また新撰姓氏録で貴族を神別、皇別、諸蕃に分け、徐々に五摂家以下の清華、羽林等の家格をつくった。  北魏は四八〇年代に、三長制を施行した。これは五家を隣、五隣を里、五里を党とし、それぞれ長をおくもので、これを課税単位として徭役制と均田法を施行した。均田法は男女、奴婢に露田を割り当て(他に桑田、麻田)、租と調を徴収するものである。この制度はのちに唐で完成し、大和朝廷の戸籍制度と班田収授法となる。  また北魏は道教と儒教をあわせ用いたが、仏教についても一時は弾圧したが、のち興隆させた王朝として有名である。雲崗および竜門石窟の仏像群は北魏仏教の高い水準を示している。  なお鮮卑系の夫余族はこのころ満州から朝鮮半島に南下し、高句麗、新羅、百済を次々に建国した。朝鮮半島南端の任那(加羅ともいう)も、かって「流移の人」である辰王が統一したことがあるという。  夫余族はいずれも始祖が天から高山に降りてきたという神話を持っているが、これは高い山並みを越えて、遠い北方からやってきたという伝承であろう。この高山降臨神話は、日本の天孫降臨神話の原型であり、日本の天皇家が鮮卑系の夫余族の流れであることの傍証となっている。鮮卑系はツングース民族の一部であり、日本語と朝鮮語の骨格がウラル・アルタイ語【系】のツングース語であることも想起したい。  南北朝を統一したのは前述のように鮮卑族の隋であるが、その後唐が成立した。唐も遠祖は北朝の西涼王家(胡族説もある)であるが、唐では道教が尊重された時期もあり、七世紀後半の高宗は天皇と称し、則天武后は天后と称したように、道教信仰が絶頂に達している。     天皇制度と道教  道教の研究者である福永光司氏によると、天皇制の制度や習慣のなかに道教の強い影響が見られるという。その端的な例として次の事項を挙げておられる。 天皇と真人 「天皇」の語の最初の確実な使用例は、『万葉集』にある柿本人麻呂の「清御原の宮に神ながら太敷まして天皇の敷きます国」とされる。これは天武天皇の皇太子草壁皇子の死(六八九年)を悼んだ歌である。 ★ 草壁皇子の生母の鵜野讃良媛は、六八六年の夫(天武)の病気に際し、朱鳥の年号を付け、死後は政治を執っており、草壁皇子の即位を期待していた。しかし草壁皇子の死(二八歳)のため、六九〇年自ら即位した。持統天皇である。彼女は夫の多数の妃から生まれた皇子たちをことごとく退け、草壁皇子の遺児(元明・文武)の皇位継承に異常な熱意を注いだ。従来は兄弟相続が多かった天皇家であったが、「不改常典」があると称して、父子相伝を絶対化し、子のあとは直系の孫とした。日本神話で天子降臨が天孫降臨となり、日神がその巫女に取って代わられ、女性神となったのは、この時期ではないか。持統の野心が神話の再編をもたらした疑いが強い。彼女の和風諡号がタカマガハラノヒロノヒメ、漢風諡号が「持統」であるのも意味深い。  道教の「天皇」の語とセットになっているのが「真人」である。道教で神仙が住むという海中の神山の「瀛州」の最高の神仙を「真人」という。六八四年制定の「八色の姓」の最高位の「姓」は「真人」であり、六八六年死去した天武天皇の和風諡号は「瀛真人」であった。天武天皇の時代が道教信仰の画期だったことは疑いない。 三種の神器 一八八九年昭和天皇の死去により皇太子明仁親王が即位したが、そのさい三種の神器なるものの継承が「剣璽承継の儀」として行なわれた。三種の神器とは、八咫の鏡、草薙の剱、八坂瓊之曲玉(匂玉)で、それぞれ神話上の由来がある。鏡、剣、玉は古代のどの民族でも貴重品として尊重されているが、これらがセットになって神器(道教の用語)とされているところに、道教の影響を見ることができる。  鏡は、道教の至人または聖人の心とする思想によるものであり、六世紀の南朝の梁の陶弘景の著作に初出する。『古事記』では天孫降臨にさいし、天照大神が孫のニニギに対し、鏡を「もっぱら我が御魂として」祭れと述べたという。これが八咫の鏡の由来である。  剱もまた漢王朝で始祖である高祖劉邦の斬蛇剱(蛇を斬る)の神話にまつわる皇帝の象徴とされていたが、天皇家の「草薙の剱」は、スサノオの斬蛇剱(ヤマタノオロチの体内より出現)であり、伊勢神宮を介してヤマトタケルに授けられ、駿河の草薙で力を発揮し、最後に尾張の熱田神宮に奉納された。  八坂瓊之曲玉も『日本書紀』の神武天皇紀に初めて登場する。  道教思想にもとづく鏡と剱の二種の神器に、儒教のシンボルである玉(璽)が加わって三種の神器となったともいい、今もって日本の天皇家の尊重するところであり、各地の神社の御神体にも多い。 末広がりの八 八という数字は末広がりの吉数として、日本人が好む数字とされている。記紀にも大八洲、八百万の神々、八紘一宇(または八紘為宇)、八咫烏など八の字に因む言葉が多数登場している。  三種の神器の一つでもある八咫の鏡は、「八頭、八葉形」つまり八角形らしい。この八角形はいろいろ使われていて、御所の紫宸殿にある天皇の「高御座」が八角形で、これは一九九〇年の天皇即位の大嘗祭のさい、京都御所から東京へ自衛隊のヘリコプターで運ばれて使用された。外にも八角形の古墳や、難波宮の八角殿院の八角形礎石、八角形の法隆寺夢殿など、大和国家と縁が深い。 世界征服の八紘一宇 また「八紘一宇」は神武天皇の即位前年の詔令に「六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為す」(『日本書紀』)とあることに由来している。「八紘」は世界を八角形として把握することで、「八荒」ともいう(『淮南鴻烈』原道篇)。「六合」もまた世界を意味するという(『南華真経』斉物論篇)。「八紘一宇」は最高神である天皇大帝が、八紘=八荒の中心に天皇の高御座をおき、全宇宙を統治するという理想を示したものである。宇宙というのも道教の観念である。この語は太平洋戦争中に日本の「聖戦」の目標である「大東亜共栄圏」建設の理想として掲げられた。何しろ天皇が世界を支配するというのであるから、日本の侵略思想の露骨な表現としてアジア諸民族の反発を受けたのは、けだし当然であった。右翼運動の指導者で音楽家の黛敏郎氏は「八紘一宇」は平和思想と主張しているが、とんでもないことである。  なお江南地方の道教は偶数を重視するが、北朝系の道教では、七五三など奇数が重視されている。江南地方では、右より左を重視するが、北朝系では右を重視するという。左大臣が右大臣より上位であるとか、雛祭りや結婚式などの男女の並び方の差異もこれと関係あるらしい。 高貴な紫色 天皇家では昔から紫色を尊重しているそうであるが、わたしたちもまた紫色を高貴な色とし、袱紗などの包み、風呂敷、幕などに用いている。紫色尊重のいわれは何だろうか。  天皇の内裏にあって儀式を行う場所が紫宸殿である。紫色は古くは太一神の宮殿の尊貴な色であり、皇帝の甘泉宮の祀壇・祭場をつつむ聖なる色であった。天上世界に住む天皇大帝の宮殿を「紫宮」とされており、これはまた紫微宮、紫宸殿とも呼ばれている。「紫皇」「紫闕」の語もある。とくに前述したように北魏が皇居を紫宮と称したのを、日本が真似たらしく、奈良時代中期に光明皇后の皇后宮職を紫微中台とし、藤原仲麻呂がその長官(紫微内相)となって権勢を振るったことがある。  六〇三年に聖徳太子が定めたという冠位十二階は、徳仁礼信義智の六つを大小に分けて冠位とし、それぞれ色を定めているが、最上位の徳には紫色が配されている。この六つのもとは天の五星を五行(木火土金水)に配し、さらに人の五常(仁礼信義知)に関連させ(『漢書』天文志)、その上に「徳」をおく。この徳は『論語』の「至徳」、『老子』の「上徳」、『荘子』の「至徳」をふまえ、五世紀頃成立した道教の教典『太霄琅書』が最上位としたものである。 ★ 冠位十二階に対する道教の影響を考えると、「天皇」号がこの時期にはじめて使用された可能性もないわけではない。聖徳太子が片岡で飢人に会った話も道教の説話のようだ。 神宮と神社 神道の拝礼所を神宮、神社という。神宮には伊勢神宮、熱田神宮、石上神宮などがあるが、神宮の最初は周王朝の遠祖姜源(女性)の神霊を祭る廟とされており、新羅でも二世紀に創建されている。神社も初出は『墨子』明鬼篇で、斉の国の神社について、二人の男が一匹の羊を神に供え、盟いの儀式を行なったという話が載っている。  天皇家の遠祖天照大神を祭る伊勢神宮は、『日本書紀』垂仁天皇紀に「この常世の浪の重波帰する国に居らむと欲す」としたので、伊勢の地に移ったという。「常世の国とは神仙の秘区にして、俗の臻らむ所に非ず」と説明されている。伊勢神宮の神体が鏡であることも含め、きわめて道教的である。伊勢神宮という呼称は景行天皇紀にはじめて記されているが、実際には七世紀末に持統天皇の頃、創建されたといわれている。 神道の源流 神宮神社が道教的であるとすれば、日本独特の宗教とされる神道も怪しくなる。  日本の神道の基本は祖霊信仰と自然崇拝(アニミズム)である。死者はミコトとなり、カミとなる。この祖霊信仰はツングース族特有の信仰であるとも、西南中国の鬼道に由来するとも云われる。また神道では山も海も木も草も神であるが、これがアニミズムである。きわめて原始的な宗教と云ってよい。  邪馬壹国の女王卑弥呼は「鬼道に仕え、よく衆を惑わす」とあるが、この「鬼」とは死者のことであり、彼女は祖先霊を神として仕える巫女(シャーマン)であった。鬼道は東北アジアのツングース族にも、西南中国の苗族などの少数民族にも行なわれていた。  「神道」の語の初見は『易経』で、「天の神道に観て四時たがわず、聖人は神道を以て教を設けて天下服す」とある。日本では『日本書紀』の用明天皇紀に、「天皇、仏法を信じ、神道を尊びたまふ」というように用いられているのが初例である。近世の国学者たちが、『日本書紀』を軽視し、『古事記』を古道として尊重するのに、『古事記』にはない。また「清く明らけき天神の真理の教」(『太平経』)や「惟神之常道」(『晉書』隠逸伝序)の神道の常套句も、実は出典は道教の教典なのである。 拝礼と鈴 この「神道」の儀式に注目してみよう。人々は神を拝む前に手を洗い、口をすすぐ。神の前に出るときは体を清めるということは、多くの宗教で行われているが、とくに道教では手を洗って心身を清めることが行なわれている。ついで人々は鈴を鳴らす。巫女も金鈴、玉鈴を持ち、神楽で鈴を鳴らす。中国の古代では「大祭祀」に鈴を鳴らすそうであるが、六朝時代の道教では「玉鈴を鳴らし、太極にまで聞えしめる」とある。太極とは、天皇大帝らの住む天上世界である。また道教の女真・女仙らが帯や腰に鈴を付け、あるいは鈴を手に持って鳴らすことが行なわれる。  『三国志』の「魏志倭人伝」では、倭人が「大人」にたいし「手を搏ちて以て跪拝に当つ」とある。柏手を打っているのである。この風習はもともと古代中国の風習らしい。七世紀の『周礼音義』は『周礼』に記載する九種の礼拝の仕方に関連して、「今、倭人は拝するに両手もて相撃つを以てす。蓋し古の遺法ならむ」とこれが古代中国の遺風であると推定している。  さらに多くの神社でさまざまな御札を発行しているが、それを身につけたり、家の一部に貼ると災難を免れることができるという信仰である。これこそ道教の護身符、辟火符、安宅符を起源としているものである。日本の神道は、古代中国の道教の変形であったのだ。     平安京  桓武天皇は七八四年に長岡京建設を命じたが、造営中に天神を祭る行事を行っている。これは昊天上帝を祀る郊祀の礼で、中国の皇帝の儀式通りに行ったようだ。そして七九四年には平安京への遷都を行なった。平安京以前に藤原京、平城京、難波京、長岡京が造営されたが、そのいずれもが中国の都城を模して造営されたと云われている。 とくに大内裏と呼ばれる平安宮は、細部に至るまで唐の長安宮(現在の西安)を模したものである。  その中心に大極殿があった。別名は紫宸殿。このいずれの名称も北魏の道教の用語である。大極とは太極とも書き、世界の始源、根源を意味し、神仙の住む所である。太極真人、太極道君などの語がある。紫宸殿についてはすでに述べたが、天皇大帝の宮殿を指す。  内裏の南には承明門(陽明門)がある。東西に日華門と月華門がある。これもまた道教の用語である。    平安京 陽明洞というのが仙洞修業の場である。また太陽や月の精気を体内に吸収する法を、服日華の法、服月華の法という。  天皇はつねに北に居る(「君子ハ南面ス」)。これは北極星を天皇大帝とする道教の観念の所産である。なお上皇というのも天神を呼ぶ言葉で、その御所を仙洞御所、姑射山というのも道教の用語である。  天皇は一月一日に「四方拝」という儀式を行なう。これは道教で四方を拝し、気を服したり、神明を感じる道術である。これは明治維新後国家の祭日であった。  平安宮から南に延びる道を朱雀大路という。朱雀は四神の一つである。東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武というのが四神で、これは高松塚古墳の壁画にもあった。朱雀大路の南端に羅城門がある。芥川龍之介の有名な「羅生門」がこれである。  京都の東北に比叡山がある。東北というのは「鬼門」とされる。「鬼」というのは死者のことで、その住む世界の都は東北にある。人は死ぬといったんそこへ行き、生前の行為についての裁きを受けるのである。と同時にここには魑魅魍魎、悪鬼妖魔が集まる。ここを管理し、王城に害を与えないようにするのが、四明君(東明君、西明君、南明君、北明君)であり、比叡山の四明岳がこれにあたる。ここに延暦寺を開いた最澄は淅江省の天台山に学んだが、そこに四明岳があった。  六世紀頃の道教では世界は仙・人・鬼の三部世界からなっているが、仙は皇居(上皇の御所は仙洞)であり、鬼は比叡山にあり、都を守護するという構想である。最澄の天台宗の王城守護の思想と道教のそれとが重なり合っていることに注意したい。一方都の西北には毘沙門天王、大将軍(上京区)を祭っている。これは西北から都を守る守護神で、太白星(金星)の精である。太白星は戦争の勝敗、国家の吉凶を占う星で、軍事を司どることから大将軍と呼ばれた。  このように平安京はすべて道教信仰によって設計されたのである。     初代天皇天武と神武  以上のように六七〇年の壬申の乱で勝利した天武天皇の統治した時期に、道教信仰が高まり、六七四年の唐の高宗の天皇号使用を直接的契機として、天皇号の使用開始は、行なわれた可能性が強い。天武は新羅や唐にさかんに遣使し、律令制度や都城の制を取入れ、六六三年の敗北から復興しようとした。飛鳥浄御原宮律令の制定と藤原京の建設がそれである。国名を倭から日本に変更したのも六七一年と記録されており、この時期は大和国家にとって大飛躍の時期である。  この天武の大王を神とする気運が高まる。そのあらわれが前掲の柿本人麻呂の歌である。ほかにもある。 「皇は神にしませば天雲の雷の丘に庵するかも」 「大王は神にしませば赤駒のはらばふ田井を都となしつ」  天武は反乱の勝利者であった。その反乱のなかで伝説的創始者であるイワレヒコすなわち神武天皇への祈願が行われている。『日本書紀』のなかで神武天皇が思い起されるのはこの時がはじめてといってもよい。さらに注目すべきは天武が天皇家の中興者として神武に匹敵した存在として描かれていることである。いや神武が天武をモデルとして説話にさらに加上されているのかも知れない。  天皇のなかで武という漢風謚号をもっているのは【、神武・】天武・【文武・】聖武のみである。この謚号のうち、武は前一世紀に朝鮮半島に進出して楽浪郡をおいた漢の武帝に由来し、天・神・聖は道教の最高観念である。ついでにいうと一〇代崇神、一五代応神が神の字を漢風謚号に含んでいる。いずれも三輪王朝、河内王朝の創始者である。  天武こそ日本最初の皇帝であり、天皇だったのではあるまいか。 ( 1) 福永光司・上田正昭・上山新平『道教と古代の天皇制』(徳間書店 一九七八年) ( 2) 福永光司『道教と古代日本』(人文書院 一九八二年) ( 3) 福永光司『道教と日本文化』(人文書院 一九八七年) ( 4) 福永光司・千田稔・高橋徹『日本の道教遺跡』(朝日新聞社 一九八七年) ( 5) 千田稔・高橋徹『日本史を彩る道教の謎』(日本文芸社 一九九〇年) ( 6) 高橋徹『道教と日本の宮都』(人文書院 一九九一年) ( 7) 福永光司『馬の文化と船の文化』(人文書院 一九九六年) 歴 史 と 現 代 4       元号――古代中華皇帝の時間支配  昭和天皇は一九八九年(昭和六十四)一月七日午前六時三三分に死去し、ただちに皇太子明仁親 王が即位した。元号は「平成」と決定され、翌一月八日から施行された。異例の翌日改元である。  「平成」の語は、中国の古典の『書経』の「地平天成、六府三事允治、万成永頼、時乃功」にあ り、『史記』の「五帝本記」に「父義、母慈、兄友、弟恭、子孝、内平外成」とある。政府は学者たちに四書五経から選択して欲しいと要請したという。論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・書経・詩経・礼経・春秋の五経であるが、書経は後世の偽古文である。  元号(年号)は中国の春秋戦国時代に諸侯が領地に布告したものが起源で、中華皇帝が人民の時 間を支配する手段である。周辺諸国は中華皇帝に朝貢し、正朔を奉じる。正朔とは正月一日のことで、暦と元号を指す。諸国が中国から自立する場合、独自の元号を用いようとする。元号はチベット・ベトナム・西域の国々も用いている。出典は中国の古典だから同一元号もあり、明治は大理で、大正はベトナムで使用されたことがある。元号は吉祥・奇瑞あるいは凶兆・不祥事によって改元し、また皇帝の代替わりでは踰年(翌年)改元が普通である。明からは一世一元とされ、以後元号は某皇帝の治世何年目という意味を持つようになった。元号は皇帝の時間支配の象徴となった。  日本では六四五年の大化を最初とするが、その後白雉・朱雀・白鳳・朱鳥・大化(再出)・大長などが断続的に使われ、七〇一年の大宝から連続的に使用された。 歴 史 と 現 代 4(つづき)  内乱時には二つの元号が使用されており、どちらの元号を使用したかで、勢力範囲が判明する。 一一八〇年(治承四)鎌倉で自立した源頼朝は、一一八二年の寿永改元後も、治承の元号を使用つづけた。平氏政権を認めなかったからである。南北朝の内乱の際も二つの元号が使用されている。一部の辞典・年表では南朝元号を先記しているが、北朝支配地域では北朝元号を記すべきだろう。  一部の地域では私年号も行なわれた。弥勒は弥勒下生への待望を表わす。  元号は不便である。ペリーが来た一八五三年は嘉永六年であったが、それから一八六八年の明治維新まで、安政・万延・文久・元治・慶応・明治と改元される。一五年間に六度である。人々は実際には干支を使っていた。干支は一二進法と六〇進法の組合わせで便利だった。  明治からは明・清にならって一世一元制となった。これは「天皇崩御ノ瞬間ハ、即チ元号終ルノ瞬間ニシテ、新元号始マル瞬間ナリ」(美濃部達吉【『憲法撮要』】)と解釈された。明治天皇は一九一二年(明治四十五)七月三十日午前〇時四十三分に死去した。ただちに皇太子が即位し、即日改元した。しかし七月三十日午前〇時から改元となると、明治天皇の生存中に新元号が適用されたことになる。一九二六年(大正十五)十二月二十五日午前一時二十五分の大正天皇の死去の際も、遡って午前〇時から昭和とされた。平成はその微妙な問題を回避し、はじめて翌日改元を行なった。  中国周辺諸国はすべて元号を廃止したが、日本のみ一九七九年に元号法をわざわざ制定し、継続使用を定めた。一体いつまで古代中華帝国の真似をするつもりなのだろうか。 『憲法 『憲法撮要』 『憲法撮要』 しかし一世一元制は、支配下の人民に皇帝の名を強烈に刻みつけるものであった。人民は自分たちの郷土や先祖の年代記を語るときも、まずどの皇帝の即位何年目かを記さねばならない。大げさにいえば皇帝が人民の時間を支配し始めたのである。死後何百年たっても。  一八六八年に明治維新を行なった日本は、天皇の統治を復活したが、そのさい従来の方法に代えて明や清の一世一元制を採用した。たしかにこの時点では、改元が多かった江戸時代とくらべて煩わしさから解放された感があった。ただし日本の一世一元制には即日改元という大変な欠陥があった。明や清では前の皇帝が死に、新しい皇帝が即位してもすぐ元号を代えたわけではない。踰年改元といって、即位の翌年一月一日から改元するのである。これは一定の合理性を持っており、人民の生活の不便は最小限にとどめられた。 佐野洋『元号裁判』(文春文庫 一九八九年)
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re:呵呵~果然是偶准备不足~继续下潜修炼去~

呵呵~果然是偶准备不足~继续下潜修炼去~
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[em12]
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re:呵呵,偶也是用这个网站的,资料确实多得吓...

呵呵,偶也是用这个网站的,资料确实多得吓人。。。
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偶也是以幸田成友的《大》为主要参考资料,并兼及18xx-200x年相关的一些论文、古文书~另,森欧外的《大盐平八郎》(小说)的附录里,也有很重要的史料哦~《大塩平八郎挙兵の顛末》不用说,一定得用到的~ 偶这次想尽力把资料综效地统合起来,首先在史实性方面必须超越《荣光》并保证一定的文学性。不过于现在而言,此次任务是十分艰巨滴,所以需要同志们一起奋迅了~希望能在明年3月前出货~呵呵~[em01] 谢谢主公及宏理、昌信两位前辈~~以终为始,偶会不停码下去滴[em10][em12]
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re:[QUOTE][b]下面引用由[u]冷泉...

引用:
下面引用由冷泉宏理发表的内容: 偶当年写大盐时候做的一些笔记,大多出自沈仁安教授的《德川时代史论》,不知对津布有没有帮助 1、大盐的一揆观本是暴徒观,其指责美浓百姓一揆为“突然来为暴,斩人如斩麻,公然忍为贼”。 2、大盐对当时社...
收集中。。。
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re:[QUOTE][b]下面引用由[u]大内...

引用:
下面引用由大内义虎发表的内容: 东西两洋一球载,日本桥水通四海。 东瀛春色锁不住,为有活水泰西来。 自1830 年(天保元年)以来,日本连年遭受冻灾、风灾、涝灾的袭击,粮食 歉收。1833~1...
介个强。。。
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re:终于有心情继续了~笔耕不能堕呀~...

终于有心情继续了~笔耕不能堕呀~ 于是,偶准备在大盐的起义过程和其学问方面、以及起义前后的各种历史分析上下功夫,大部分的生涯就从简叙述了吧~[em01]另外一是史料来源太广,资料间相互矛盾的地方众多,所以有一些故事没写,另一些也可能有错~~不过偶尽力在各版本中对比选择,努力弄得翔实点~[em23] 同志们有空来捉虫吧~[em04]
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re:不能[em01][em08]

不能[em01] [em08]
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re:更新了几个字。。

更新了几个字。。
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re:这个是我弄错拉,在好几套资料里来回对比摸...

这个是我弄错拉,在好几套资料里来回对比摸索,果然把自己弄晕了。。。
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