安房守日(真田豪语录)

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二哥,麻烦了

二哥,麻烦了

森忠政公の嫡子であった森忠廣公は慶長9年(1604)、津山城築城中に院庄の仮御殿で生まれた。母は織田信長公の従兄弟に当たる、名護屋因旛守の娘で、羽柴秀長の養女となって森家に嫁いできた人であった。生まれつき聡明で文武両道で、容姿も美しかったために、家臣の間でも、若くして亡くなった忠廣公の兄重政公の代わりに素晴らしい世継ぎになると評判であった。 この噂がやがて将軍家の近くまで聞き及ぶと、将軍秀忠公の養女を忠廣公に降嫁させる縁談が浮上した。秀忠公の養女といっても、加賀藩主前田利常の娘であり、利常公の正室が秀忠公の娘であったことから、徳川家の血縁者である。この養女は鶴亀姫といい、14歳で森家に輿入れすることになった。  寛永3年(1626)1月24日、秀忠公はこの縁談を正式に発表し、一ヵ月後の2月24日、老中の土井利勝が奉書を持って前田利常の娘を将軍の養女とする縁組が申し渡され、前田家で養女縁組が行われた。この後、鶴亀姫は江戸城の大奥に迎えられ、正式に将軍秀忠の娘となった。半年後の8月19日には忠廣公を従四位下に叙せられ、侍従の官職に任ぜられた。そしてその父である忠政公も正四位中将に叙せられた。このときの忠廣公の叙位は将軍家の養女の婿となるためにつりあいを持たせる性格が強かったものと思われる。  また、これまで森家では当主以外の人物に官位を与えられることがなかったため、この親子そろっての任官を家中総出で祝ったといわれる。 そして11月江戸城西の丸にて婚儀が執り行われ、土井利勝と酒井忠勝が輿副となって、鶴亀姫の輿に付き添い、加賀の前田家からは加賀藩家老の横山左衛門が付き従い、行列となって森家の忠廣邸に輿入れした。 忠政公は江戸城の下乗橋でこの輿を出迎え、御輿の受取儀式が行われ、森家の筆頭家老である大塚主膳三俊が輿受けとなり、貝桶を同じく家老の森采女可春が受け取った。  また、忠廣公は将軍秀忠公から鈎切長光(こうせつながみつ)の刀と当麻国行(とうまくにゆき)の脇差を拝領、家光公からは行平の太刀と来国次の脇差を拝領、さらに前田利常公からは大和包永(やまとかねなが)の刀を引き出物として贈られた。 そして、忠廣公が江戸に在府している間に使える鷹場として、船橋(現在の千葉県船橋市)の近辺と、13尾の鷹などを賜った。船橋には、常盤殿という家康公所縁の鷹場があり、将軍家にとっても大切な鷹場であったと思われる。 寛永6年(1629)4月26日には、将軍が前田利常公の屋敷に御成(おなり=将軍が大名の屋敷を訪ねること)があり、その途中、武蔵野の板橋のあたりで鷹狩を催したが、忠廣公もこれに同行して親戚としての待遇を受け、更に正室の鶴亀姫に対して白銀200枚と反物20本を将軍から拝領した。 しかし、忠廣公の全盛期はこのあたりまでで、後は落日の一路をたどることになる。 寛永7年8月4日、鶴亀姫がわずか18歳で急逝する。この急逝は、それまで高貴な夫人を迎えていたプレッシャーを抱いていた忠廣公に、大きな衝撃を与えたのである。鶴亀姫の遺骸は池上の本門寺に葬られ、浩妙院殿と号した。しかし、将軍の養女が急逝したことで、実家の将軍家と鶴亀姫の生家である前田家から不審を抱いてしまい、その反動からか、酒色におぼれる毎日となった。勉学を怠って白拍子を寵愛するようになり、醜聞を生み始めた。 これに頭を痛めた忠政公は家臣の高木右馬助に命じて江戸藩邸の一室に忠廣公を押し込めて監禁し、慢心を解くように試みたが、高木の厳しい仕打ちに忠廣公はやがて病を発して他界し、かえって幕府や前田家に無断でこのような事を行った忠政公は両家から多大な叱責をうけることとなった。また、言うまでもなく高木右馬助は浪人となって津山藩を追放された。 忠廣公の遺骸は、鶴亀姫とは異なる谷中の広徳寺に葬られた。現在広徳寺は戦災のために移転して、練馬区に在している。このときの移転により、現在忠廣公の墓石は現存しない。
愿上天眷顾我!

金森宗康
能力:3 8 9  兵力:12600人 军资金:100000贯 技能:伪报

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