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哦,小鸟真打算完成此工程么?[em05]甚好甚好!要是那样的话,开篇那段话也是不该少的~~~可以帮助读者从总体上把握大局~~~
応永の乱の際の和泉堺の合戦を描いた軍記、『応永記』の現代語訳です。別名『大内義弘退治記』とも呼ばれています。著者・成立年は不詳。
応永の乱は、周防・長門を根拠地とする大内義弘が、室町時代初期の応永六年(1399)に起こした反乱です。
大内氏は、義弘の父弘世が足利尊氏を援助して周防・長門の守護となり、義弘は今川了俊に従って九州経営に参画、周防・長門のほか、和泉・紀伊・豊前・石見の六か国の守護を兼ねていました。また、朝鮮との貿易でも利益を収めて、強大な勢力を誇っていました。
そのため、幕府の集権体勢に沿わない外様大名として、また、幕府が注目し始めた対明貿易の競合者として、幕府の抑圧対象とみなされるようになっていきました。
将軍足利義満の政策に不安をつのらせた大内義弘は、応永六年十月上洛命令に応じて、大軍を率いて領国和泉の堺に入ると、鎌倉公方足利満兼と結んでその地で反乱を決意。これに呼応して美濃の土岐詮直(あきなお)、丹波の山名時清のほか、南朝系の武士たちも挙兵します。しかし、足利満兼は上杉憲定が強く諌めたため兵を挙げることができず、大内義弘は同年十二月に堺で戦死。地方の反乱も鎮圧されます。
この反乱の鎮圧によって足利義満は有力守護の勢力削減に成功し、対外貿易の主導権も得て、権力基盤を完全に確立することになったと言われています。
(写真は、大内義弘供養塔。義弘最期の地と伝えられる本行寺(堺市西湊町)にある。)