36. 文禄元年(1592年)7月27日頃~8月22日頃
加藤清正 豆満江(中国との国境)を越えて、女眞族支配地域(間島-現在の中国延邊朝鮮族自治州)に侵攻兀良哈〔オランカイ-人名ではなく、女眞族のこと〕と戦う。
酋長「卜占台」の軍勢を破り、都「南京-現在の中国延邊朝鮮族自治州「延吉」付近」を陥落さす。
兀良哈征伐の目的は、明国への侵攻について、この地方の動向を探るためであった。女眞族の侵略に悩まされていた民衆の支持が増す。
※ 「加藤清正の長束正家・増田長盛宛の書状」〔7月23日付〕(韓陣文書に書収)
「加藤清正の浅野長政宛の書状」(浅野家文書に書収)
「加藤清正の九鬼廣隆宛の書状〔7月27日付〕」(九鬼文書に書収)「加藤清正の木下半介吉隆宛の書状〔9月20日付〕」(古蹟文徴に書収)
「北關誌 鏡城府雑記」
ただ、朝鮮人は義兵は朝鮮人のみによって構成されてかのように言うが、朝鮮人ばかりではなく女眞族も含まれていたことは、日本側の資料(『普聞集』、 『清正高麗陣覺書』)にも明らかである。『清正高麗陣覺書』の「吉州より到來有之ニ付て、あんへん〔安邊〕より北青と申所迄七日路、清正被戻侯事」と題する章に「地下人〔義兵〕起り・・・きっちゅう〔吉州〕の城を取まき、・・・おらんかい人〔兀良哈-女眞族〕猛勢ニて取巻、城を責め申侯より注進申ニ付 ・・・」、『普聞集』にも「加藤清正カ家士橘州〔吉州〕在城ノ輩、朝鮮兀良哈ノ賊數万の為ニ圍マレ、數十月(日?)ノ防戦ニ屈メ、スクヒヲ清正に乞」と あり、女眞族が義兵と一緒になって吉州城を攻略したことが記されている。
清正は朝鮮人と女眞族とを明確に認識していた(「加藤清正の木下半介吉隆宛の書状〔9月20日付〕」(古蹟文徴に書収)」。
このことは朝鮮人にとってはなはだ面白くないことと思われ、北関大捷碑にも朝鮮人の研究書にも言及がない。日本侵略を強調する「北島万次」の書籍も同じである。故意に隠蔽したものと考えらる。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hokkan.htm