还是翻译的问题……
清少納言の落魄説話が鎌倉時代に書かれた『無名草子』『古事談』などにあり、『古事談』には、「鬼形之法師」と形容される出家の姿となり、兄・清原致信が源頼親に討たれた際、巻き添えにされそうになって陰部を示し女性であることを証明したという。
また全国各地に清女伝説(清少納言伝説)がある。鎌倉時代中期頃に成立したと見られる『松島日記』と題する紀行文が清少納言の著書であると信じられた時代もあったが、江戸時代には本居宣長らによって偽書と判断されている。
伝墓所
徳島県鳴門市里浦町坂田:比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めをうけんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという。
香川県琴平金刀比羅神社大門:清塚という清少納言が夢に死亡地を示した「清少納言夢告げの碑」がある。
京都市中京区新京極桜ノ町:誓願寺において出家、往生をとげたという。
歌碑
京都市東山区:百人一首にも採られて有名な「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の歌が刻まれた清少納言の歌碑。定子皇后の鳥辺野陵近く、皇室と縁深い御寺・泉涌寺の仏殿の隣に立つ。嘗てここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したと思われる所として、昭和49年(1974)、当時の平安博物館館長・角田文衞氏の発案によって歌碑が建立された。