北田显家卿的文
顕家諫奏文
顕家は戦死する直前に後醍醐に対して新政の失敗を諌める奏上文(顕家諫奏[4])を遺した。
速やかに人を選び九州、東北に派遣せよ、さらに山陽、北陸にも同様に人をおいて反乱に備えよ。
これは建武政府が京都のみを重視し、陸奥に顕家を派遣した他は地方にほとんど無関心だったため、反乱がたびたびおこったり、敗北した足利尊氏が九州で再度兵を集めて京都に攻めよせて来たことへの批判である。
諸国の租税を3年免じ、倹約すること。土木を止め、奢侈を絶てば反乱はおのずから治まるであろう。
3年間税を免じるというのは、仁徳天皇の故事を引用したもの。土木とは、後醍醐が計画した大内裏造営計画で、これにともなう二十分の一税などたびたびの臨時の増税が民心の疲弊と各地の反乱の要因であると批判している。
官爵の登用を慎重に行うこと。功績があっても身分のないものには土地を与えるべきで官爵を与えるべきではない。
三木一草や従二位参議となった足利尊氏、左中将となった新田義貞など身分の低い者に高位の官職を乱発したこと、官位相当制を無視した人事(顕家自身も従二位でありながら従五位上相当の鎮守府将軍に任じられた)への批判である。
恩賞は公平にすべきこと。貴族や僧侶には国衙領・荘園を与え、武士には地頭職を与えるべきである。
恩賞の不公平がはなはだしかったことへの批判。地頭職が寺院に与えられたり、特定氏族による官職の世襲請負制を破壊して彼らの知行国や所領を没収して武士の恩賞としたことが具体的に批判されている。
臨時の行幸及び宴会はやめるべきである。
政府がたびたびの行幸や毎夜の宴会で莫大な費用を使っていたことへの批判である。
法令は厳粛に実行せよ。法の運用は国を治める基本であり、朝令暮改の混乱した状態は許されない。
後醍醐が綸旨絶対主義を採りながら、矛盾した綸旨が出されたり、先の綸旨を取り消す綸旨を出したりするなど、朝令暮改的な行動が混乱を招き、天皇権力の低下を招いたことへの批判である。
政治に有害無益な者を除くべきである。現在、貴族、女官及び僧侶の中に、重要な政務を私利私欲によりむしばんでいる者が多く、政治の混乱を招いている。
後醍醐の寵愛著しく国政にまで口出しした阿野廉子、僧円観・文観などを意識した批判である。
「延喜・天暦にかえれ」をスローガンにした建武の新政だが、その内実は宋学の影響が色濃い後醍醐が宋に倣った君主独裁制を志向するものであった。律令制以来の国家体制の再組織を狙い、官位相当制や官職の世襲請負制を打破して、既成貴族層の解体をはかる新政の改革は、顕家をはじめとする貴族層には受け入れがたいものであった。
諫奏文は「もし、この意見を聞き届けていただけないなら、自分は後醍醐のもとを辞して山中にこもる」と激越な文章で結ばれており、顕家の憤りの強さがうかがえる内容となっている。