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戦国時代の馬はポニーサイズ
このような山、科、沢、平といった自然が織り成す信濃の地形は、古来より天然の牧場として、馬の成育に適していた。つまり沢から流れてくる水が馬の飲み水となり、平では牧草が育ち、科(山麓)が自然の柵となる。
奈良時代、朝廷は馬の育成を図るため諸国に牧地を定め、特に信濃、甲斐、武蔵、上野の4カ国には御牧(国立牧場)を設置していた。それを監督する役人を牧監という。
現在から想像する以上に馬の数は少なく、貴重なものだった。また気の荒い野生馬の育成は大変な作業で、専門性と経験が求められた。いまでいえば野生馬の調教である。並大抵の苦労ではない。
その牧の数と朝廷に納める馬の数は、信濃が圧倒的に多く、国内では佐久郡3牧、諏訪郡3牧、伊那郡3牧……と全域に分布している。
御牧の分布
国名 牧数 馬数(頭)
信濃(その中望月の牧) 16(1) 80(20)
甲斐 3 60
上野 9 50
武蔵 4 50
中でも著名だった牧場が佐久郡の望月の牧。平安時代にはここから20頭、その他の牧から60頭、合計80頭の馬が毎年京都に送られた。ボリューム的にも望月の牧はダントツの存在であり、当時の日本では最大の生産地といって過言ではなく、「望月の馬」として貴族から珍重されたと伝えられる。
言い換えれば、馬はその稀少性のために特権階級の身分の象徴=ステータスだったわけだ。これは、次世代の支配階級・武士にとっても同様である。
馬は戦国時代の合戦形態に密接に関係するので、ここで当時の様子について触れておきたい。
まず鎌倉時代から江戸時代にかけての国産馬の大きさは、名馬といっても現在のポニー(体高147cm以下)のサイズ。標準サイズは体高約130~140cm、馬体重も350kg前後とかなり小型である。競走馬として著名なサラブレッド(体高160~165cm)には程遠い状態で、約20cm以上は低かった。
この状況は江戸末期でもあまり変わらず、当時の事典『古今要覧稿』にも「おおよそ馬の丈は4尺(121cm)を定めとし、4尺の馬を小馬、4尺5寸(136cm)を中馬、5尺(152cm)を大馬という」と記されている。
これが明治時代になって富国強兵が叫ばれ始め、日本が軍国化を辿る過程でアラブ種やサラブレッド種が輸入され、新たな軍馬の育成が図られていく。
それより3百年以上も前の時代の話である。たとえば武士が合戦に赴く際にも、馬には鎧をまとって武士が乗り、かつ人馬の食糧を乗せ、その脇に制御用の鼻ネジや馬盥、槍や鉄砲などの武器、自分用の食糧を持った徒歩の小者が従う。
分かりやすくいえば、小型馬に鎧40kgを着た体重50kgの武士が乗り、さらに食糧10kgを積むことになる。当時の馬は約100kgの重量に耐えながら、未整備の道を歩く。しかも蹄鉄技術もないので、道なき道を「沓」という馬用の草鞋を履いて進んだ。このように馬にかかる負担は想像以上にきつく、全力疾走をすればばててしまう。それが実態である。
したがって映画『影武者』(黒澤明監督)の「大型馬に騎乗した武田騎馬軍団が戦場を駆け巡る」シーンなどは、イリュージョンの世界でしか過ぎない。むしろ実際の人馬の様子は、甲冑をまとってポニーに乗り、従者サンチョパンサを連れて荒野を進む「ドン・キホーテ」、あのみずぼらしい姿に近い。
刚才突击敲进去的,你看前面御用养马场的数字,挺好玩的。
聪明又严谨的女人是自恋的典范。——如果再加上一点姿色。http://kamakura.blogms.com/blog/BlogView.aspx?BlogCode=kamakura