搜索了一下:
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02129.htm
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kume.htm
[B]久米氏は、もともと西南地方の隼人出身であろうといわれている。
「クメ」は、熊襲(くまそ)・肥人(くまひと)の「クマ」であり、
海幸彦を祖とする隼人は、三品彰英氏著の「日本神話論」などによれば、海人であったとされている。また、「撃ちてしやまむ」で有名な
久米歌は、海辺で鯨をしとめた時の凱歌で、久米氏は福岡県糸島郡の久米地区出身氏族だという説もある。だとすると、
阿曇氏の志賀島は目と鼻の先だし、古事記に、
大久米命は黥利目(さけるとめ・入墨をした目)であったとあり、有名な「魏志・倭人伝」の、「倭の水人は、好く沈没(潜水)して魚貝を捕り、大人も少年も身体や顔に文身(入墨)をしている」という記事と合致し、阿曇氏も「
阿曇目」といって、目の縁に入墨をしていたことからも、阿曇氏と同族だったのではないかと思われる。
また、「
久米歌」には、盛んな戦闘意識が歌われていることからも、久米氏が初代
神武天皇朝において、大伴氏と共に宮廷の軍事に携っていたことが分かる。その一方で、膳手(かしわで)の職掌に関する事柄や、農耕、海人の生活体験からと思われる事柄も歌われており、興味深い。
しかしながら、これだけ有名な軍事氏族であるにもかかわらず、嫡流の系図は伝わっておらず、奉祀する神社も、私には、畝傍山の近くの
久米御縣神社一社しか確認できていない。その他にも、神武天皇とその東征の際に武功のあった神々と共に祀られているのを、少数確認するに留まっている。
余談だが、万葉集18/4094の大伴家持の歌には「大伴の 遠つ神祖の 其名をば 大来目主と おひもちて」とあり、素直に採れば大伴氏と久米氏は同族ということになる。しかし、「主(ヌシ)」は「ノ・ウシ」の要約した形で、「~を支配する者・領有する者」の意味なので、「偉大なる久米部の支配者」という意味になり、これは、日本書紀の神武紀で、大伴氏が久米部を統率している姿に重なる。「大伴」とは「偉大なる伴部」つまり兵隊の意味で、役割をそのまま氏族名にしていて、地名などから本拠やルーツを探りにくい、いわば漠然とした氏族なのだが、海人系の
津守氏や
日下部氏も配下にしており、5世紀の後半頃から、丁度、久米氏の衰退と重なりって入れ替わるように台頭して来ている。これは、何を意味するのだろう。敗者である
海幸、それに何度か九州で反乱を起こした「隼人」との関係を断ち切りたくて、久米氏は大伴氏と名前を変えたのではないか?
久米氏と大伴氏は、皇室の親衛隊的な軍事氏族としての性格は、当にそっくりだ。古事記では、大伴氏の祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)と、久米氏の祖の天久米命(あめのくめのみこと)が並び立っているのに、日本書紀では主従関係となり、やがて久米氏の影は薄くなって行く。何れにせよ、大伴氏は
松浦の小夜姫の恋人である大伴狭手彦であるとか、
継体天皇を擁立した、狭手彦の父の大伴金村であるとか、海人系の氏族であることに変わりはない。[/B]
[此贴子已经被作者于2005-9-27 13:14:18编辑过]