其实不太熟系~~~~
家纹网原文~~~
『武田系図』によると、信昌は五人の父である。長男信縄、次男信恵のほかに三男の岩手縄美、四男の松尾信賢、五男の帰雲軒宗存の五人であった。信恵には笛吹川ぞいの油川周辺の領地を与え、縄美には東郡の岩手村周辺の領地を与え独立させ、信賢は信恵の属将松尾氏を継がせた。五男の宗存は出家した。
其中松尾信賢1478年~1531年,那么諸角豊後守虎定1480年~1562年还是有可能出现的~~~(汗水~~~四子和六子就差两年)
关于内乱一事~~~
原盛胤 ?~1582
武田家臣。虎胤の二男。長男の彦十郎が横田高松の跡を継いだために、盛胤が虎胤の跡を継ぐ。80騎の侍大将であったが、諸角昌守との喧嘩が原因で知行・同心を召し上げられた。
至于諸角昌守,他的身份也有点特殊~~~~
板垣玄蕃允昌守
1491年~1564年、諸角昌守、諸角玄蕃允、室住玄蕃。板垣信方の弟。諸角虎定嗣。諸角虎定に嫡男がいなかったため、板垣信方の弟板垣昌守が養子として諸角家に入っている。
至于那句“一般谈及家族源流的本源,不管其间是否有他族入嗣,所指的都应是最初最确定的源流。”俺也比较倾向于这种说法~~~
最后~~~俺举手赞成了~~~~
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本帖最后由 江城梅花引 于 2008-12-8 19:30 编辑 ]