安房守日(真田豪语录)

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【讨论】源博雅小传-扑朔迷离的叶二

【讨论】源博雅小传-扑朔迷离的叶二

[]“博雅三位,尝于月明之夜便服游于朱雀门前,终夜吹笛。一人着同样便服,亦吹笛,不知何许人也,其笛音妙绝,此世无伦。奇之,趋前觑观,乃未曾见者也。
我亦不言,彼亦不语。如是,每月夜即往而会之,吹笛彻夜。见彼笛音绝佳,故试换而吹之,果世之所无者也。
其后,每月明之时即往,相会而吹笛.然并不言及还本笛事,遂终来相换。三位故后,帝得此笛,令当世名手吹之.竞无吹出其音者。
后有一名净藏者,善吹笛。召令吹之.不下于三位。帝有感而日:“闻此笛主得之于朱雀门边。净藏可至此处吹也。”
月夜,净藏奉命赴彼处吹笛。门楼之上一高洪之声赞日:“此笛犹然佳品哉。”
以此奏达帝听,始知系鬼之笛也。遂赐名叶二,乃天下第一笛也。”
                                                            -《十训抄》

每个熟悉博雅的人,恐怕都不会忘记一件东西。没错,它就是那把传说中博雅从不离身的名笛-叶二。

关于它的来历,开头所引之文已说的非常清楚,叶二者,鬼笛也。然而,它真的就如《十训抄》中所言,是一只鬼笛吗?一生都被传说所笼罩的博雅,他所持有的名笛,是否也只是传说一个呢?
叶二究竟存在?还是虚无?如果存在,它为何会笼罩在鬼笛的迷团里?如果虚无?那它为何会被千年流传?如果存在?那它现在何方?如果虚无,那证据又是什么?

笔者姑且暂凭有限资料,略为论述。

在分析叶二存在之前,我们首先需要知道其读音。

叶二,日文作「葉二」,其假名写作ようじ(音读) 或 はふたつ(训读),熟悉日文的人应该都知道,音读同训读其实只是在读音上有些许区别,真正的意思上并无差异,所以乍一看,这并无问题.可是,这里面却有一点奇怪的地方.

ようじ,它的意思是叶二,可它还有一个意思,它便是所谓的”杨枝”.

杨枝?这似乎并无什么问题存在,可是如果我们明白叶二的类型,我们就会发现,它不仅仅是我们想象的那么简单.

叶二按类型来分,是所谓的”龙笛”,而如果我们把龙笛同杨枝一同联想,我们会想到什么?
没错,就是那枝同样大名鼎鼎的笛子-小枝。

如此说来,叶二是否就是小枝呢?恐怕不尽然,在判定它俩关系之前,我们首先需要弄清楚小枝的来历。

平家物语中是这样描述小枝的来历的:
“件の笛はおほぢ忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたりしを、篤盛器量たるによて、もたれたりけるとかや。名をばさ枝とぞ申ける。”
照此说法,小枝应该是由鸟羽上皇赐予平忠盛的,之所以将其命名为小枝,则很可能是来自于ようじ这个发音,由此说来,似乎也有些道理。
然而在《源平盛衰记》中,却又有如下记载:

“彼笛と申は、父経盛笛の上手にて御座(おはしまし)けるが、砂金百両宋朝に被(レ)渡て、よき漢竹を一枝取寄、殊によき両節間を一よ取、天台座主(てんだいざす)前明雲(めいうん)僧正(そうじやう)に被(レ)仰て、秘密瑜伽(ゆが)壇に立て、七日加持して、秘蔵して被(レ)彫たりし笛也。子息達の中には、敦盛器量の仁なりとて、七歳の時より伝て持れたりけり。夜深る儘にさえければ、さえだと名付られける也。”
按照这种说法,小枝是平经盛用沙金百两从宋朝购来笛材雕刻而成,同博雅的叶二没有任何关系。

不过,小枝真的是由平经盛手中所传承的吗?在他之前,是否也有人持有过小枝,答案是肯定的,他便是治承年间反抗平氏的高仓宫。

《平家物语》中有如下记载:

“長兵衛尉信連は、御所の留守にぞをかれたる。女房達の少々おはしけるを、かしこここへたちしのばせて、みぐるしき物あらばとりしたためむとてみるほどに、宮のさしも御秘蔵ありける小枝ときこえし御笛を、只今しもつねの御所の御枕にとりわすれさせたまひたりけるぞ、立かへてもとらまほしうおぼしめす、信連これをみつけて、「あなあさまし。君のさしも御秘蔵ある御笛を」と申て、五町がうちにおついてまいらせたり。宮なのめならず御感あて、「われしなば、此笛をば御棺にいれよとぞ仰ける。”
《源平盛衰记》也有记载:
“希代の宝物共も打捨させ御座、御厨子に被(レ)残ける、御反古ども、なからん跡までもいかゞと被思召(おぼしめさる)、御笛御琵琶御遊(ぎよいう)の具足、源氏、狭衣、古今、万葉、歌双紙等、何も/\御心に懸らずしもはなけれ共、其中に小枝と聞えし、漢竹の御笛の、殊御秘蔵ありけるをば、何の浦へも御身にそへんとこそ、兼ては被思召(おぼしめされ)けるに、余りの御心迷に、常の御所の御枕に残し留められけるこそ御心にかけて、立帰ても取まほしく思召(おぼしめし)て、延もやらせ給はず、御伴に候ける信連を召て、加程に成御有様(おんありさま)にては、何事か御心に懸べきなれども、小枝をしも忘ぬる事の口惜さよ、いかゞせんと仰有ければ、信連さる男にて、最安き御事にて侍とて走帰、御所中(ごしよぢゆう)大概取したゝめて、此笛を取、二条高倉にて追付進て献(レ)之、宮御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひ、よにも御嬉しげに被思召(おぼしめされ)たり。”

这二者记载的内容基本相同,都是说在高仓宫逃亡的时候,一名叫做长兵卫尉信连的人在住所留守时,发现了高仓宫所遗失的“小枝”,心想这么重要的东西可不能丢下,于是便追赶了五町的路程,直到把它交还给了高仓宫,高仓宫非常的高兴。此二者的区别就在于前文多出了关于高仓公死后希望小枝陪葬的说法,而后文却指出小枝是汉竹之御笛。

汉竹之御笛的说法,应该是可信的,因为在《平家物语》同《源平盛衰记》还记载了一枝同小枝一起被高仓宫所珍藏的名笛-蝉折,《平家物语》中是如此描述它的:

“此宮は蝉をれ・小枝ときこえし漢竹の笛をふたつもたせ給へり。かのせみおれと申は、昔鳥羽院の御時、こがねを千両宋朝の御門へおくらせ給たりければ、返報とおぼしくて、いきたる蝉のごとくにふしのついたる笛竹をひとよおくらせ給ふ。「いかがこれ程の重宝をさうなうはゑらすべき」とて、三井寺の大進僧正覚宗に仰て、壇上にたて、七日加持してゑらせ給へる御笛也。或時、高松の中納言実平卿まいて、この御笛をふかれけるが、よのつねの笛のやうにおもひはすれて、ひざよりしもにおかれたりければ、笛やとがめけん、其時蝉をれにけり。さてこそ蝉をれとはつけられたれ。笛のおん器量たるによて、此宮御相伝ありけり。”
《源平盛衰记》的内容也大致相同:
“蝉折と云御笛は、鳥羽院(とばのゐんの)御時、唐土の国王より御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに、砂金千両に檜木の材木を被進送たりければ、唐土の国王其御志を感じて、種々の重宝を被報進ける中に、漢竹一両節間被(レ)制たり。竹の節生たり。蝉につゆたがはざりければ、希代の宝物と思召(おぼしめし)て、三井寺(みゐでら)の法輪院覚祐僧正(そうじやう)に仰て、護摩の壇上に立て、七箇日加持して後、彫たりける御笛也ければ、おぼろげの御遊(ぎよいう)には取りも出されざりけり。鳥羽殿(とばどの)にて御賀の舞のありけるに、閑院の一門に、高松中納言実平、此御笛を給(たまひ)て吹けるが、すき声のしけるをあたゝめんとて、普通様に思ひつゝ、膝の下に推かいて、又取上吹んとしてけるに、笛咎めや思けん、取はづして落して蝉を打折けり。其よりして此笛を、蝉折とぞ名ける。高倉宮(たかくらのみや)管絃に長じまし/\ける上、ことに御笛の上手にて渡らせ給(たま)ひければ、御孫子とて、鳥羽院(とばのゐん)此宮には御譲ありける也。”

细读其文,并比对前所引文,我们会发现,这三者惊人的相似,几乎就是一件事情的分化。
总结起来,大概如此:
“小枝同蝉折均为汉竹之御笛,是在鸟羽上皇的时代出现的,它最先是由高仓宫所持有。”

既然如此,那平氏的小枝又来自于哪里?或者说,它们会不会只是两把同名的笛子?
这种可能性基本没有,作为一种乐器,通常不会有量产一说,况且无论是物主还是工匠都希望自己的东西是独一无二的,所以也不会取相同的名字。
所以,平氏所持有的小枝,应该是在高仓公死后所得,象高仓宫这样的高贵人士,他的身边一定不会带着什么八九流的西贝货,只要认出这人是高仓宫,并打听到蝉折已经进奉佛前的消息,一定会毫不费力的判断出这支笛子就是小枝,平氏拥有它,也是顺理成章之事。

那它和叶二又有什么关系呢?先不妨再回到叶二上面去。

正如前面所说的,判定叶二与其他笛子的关系,首先需要从其名字入手,那么为什么叶二要称之为“叶二”呢?

《十训抄》有载:

“この笛には葉が二つある。一つは赤く、一つは青くて、朝ごとに露をおくと言い伝えられたので。”

是因为笛子上有两片叶子,一赤一青,早晨还有露水于其上,故名叶二,是天下第一苗也。

这同小枝有什么联系吗?答案是肯定的,要知道小枝还有一个别名,那就是“青叶”

小枝是青叶笛的一种,所以有时候也以“青叶”为名。

疑惑到这里,似乎逐渐的解开了。

按十训抄所载,博雅故去后,叶二便由一条天皇所持有,然后便一直传到了鸟羽上皇的手中,再由鸟羽上皇将其赐予高仓院,高仓院通过ようじ一词,该其名为“小枝”,高仓院死后便由平氏所拥有,敦盛战死后,小枝又落入了熊谷次郎的手中,然后辗转百年,最终藏于须磨上野山福祥寺。

如此说来,叶二便是小枝,可细索下,还有些许漏洞尚未补完。

首先,如果说叶二便是小枝,那它究竟是何人所作,按前所引文,它可能是由平经盛或者鸟羽上皇从宋朝购买到笛材,雕刻而成。

如果确实如此的话,那便爆发出了一个严重的问题。

博雅死于天元3年9月28日(980年9月28日),而无论是平经盛还是鸟羽上皇,都在百年后才出生,如果叶二就是小枝,那么博雅是无论如何也吹不到它的。

莫非,叶二其实只是后人由小枝而为博雅“量身打造” 的笛子而已?

恐怕也不是,因为在《枕草子》中也有关于一条天皇与叶二的记载,这恰好同十训抄所吻合,如果说十训抄只是镰仓时代的说话集,其中内容可能有些偏差,那作为与一条天皇同一时期的《枕草子》,是绝不可能将天皇的活动写错的。

那么,叶二究竟在哪里?如果它是确实存在的,它便不可能没有任何史料的记载,更不可能没有留下一丝的痕迹?



至此一下,完全不知道该怎么写了?

简直就是越写越糊涂,如果说叶二是虚无的,那无法解释《枕草子》中的说法。

如果说叶二是存在的,又没有它存在的证据。

所有的问题,都集中在一点-小枝究竟是什么时代所制造的。

如果真的如同前文所言,是经盛或者鸟羽上皇所购笛材而制作,那么小枝就可以很彻底的放弃同叶二的关系了。

那样的话,叶二究竟在哪里?
总之…俺写乱了…俺不会写了..

大家救命吧……………..


还有,似乎有一个问题一直被我们所忽视,小枝为什么要叫做小枝?

或许它跟扬枝一点关系也没有呢?


以上问题,大家来讨论下吧~~

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我认为,鸟羽院赐小枝于忠盛之说既然否定——不过我觉得这里还需详细论述——那么完全可以认为小枝就是秘藏宫中的叶二。小枝之名来自“杨枝”,据说叶二后来被某关白(忘了是九条经实还是谁了)碰掉了叶子,而且好像是在宫中,大概是因为叶子脱落之后名不符实,所以由谐音的“杨枝”转成“小枝”了。平经盛和鸟羽上皇购入笛材的说法毕竟出自战记物语,即使描绘再怎么样翔实,终究可信度是要打问号的,再说占有亲王的遗物毕竟不是一件非常光彩的事情,平氏为了掩饰,也可能会编出种种传说来,说不定《源平盛衰记》和《平家物语》中对于小枝来历的介绍之所以问题多多,就是因为有人刻意混淆视听。
文园渴甚兼贫甚,只典征裘不典琴。
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そののち伝えられて御堂入道殿の持ち物になったのを、宇治殿平等院をお造りになった時に経蔵に納められた。この笛には葉が二つある。一つは赤く、一つは青くて、朝ごとに露をおくと言い伝えられたので、京極殿6がご覧なさった時は、赤い葉が落ちて露はおかなかったと、富家入道殿が語っておられた。

我觉得《枕草子》的内容应该没错,叶二是肯定存在的..

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这里说叶二是藤原道长所藏,建造平等院时奉纳,道长卒于1028年,平等院则是其子赖通于1052年在宇治殿基础上修建的,是藤原氏的寺院。京极殿应该是指藤原师实了,他把叶子碰掉的时间不明,但应该是1052年之后。一条天皇在位时间是986-1011年,道长是他在位期间的左大臣,但当时实际已是朝中第一人,到其子后一条天皇时,道长升任摄政、太政大臣,权倾朝野。如此看来,叶二是从皇室流入藤原道长手中的。但为什么师实时还在平等院的叶二后来又回到了大内呢?或许与师实之孙忠实有关。
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頼長は崇徳上皇に接近して、1156年、保元の乱が起こる。敗れた頼長は忠実に対面を望むが忠実は拒み、頼長は失意のうちに死んだ。乱後、罪を問われ流罪になりかかるが忠通のとりなしで罪を免れ、以後は奈良の知足院に隠棲する。だが、それも親子愛からではなく、忠実が所有していた摂関家伝来の所領が罪人の財産として没収される事を忠通が恐れたからであると言われている。
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这段似乎是说保元之乱后忠实问了流罪,但因忠通而免于流放,以后隐居在奈良。忠通为忠实开脱并非因为父子之情(忠实是忠通之父,由于忠实偏爱有才气的次子赖长而父子不和),而是担心忠实所领有的摄关家祖传领地被当作罪人的财产没收。那么,我想,很可能叶二也正是因此变故而重新回到皇室的,忠通在保元之乱中站在后白河天皇一边,而后白河天皇正是高仓宫的父亲,如此解释叶二的传承,应该还说得通吧。
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首先我强调一点,所谓“杨枝”与“叶二”音读相同现在只能理解为巧合,不具有必然性。因此,由“杨枝”过渡到“小枝”的推理还是缺乏根据的。因此在考证小枝的来源时,不能过分强调“杨枝”。

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本来这只是一个突破口~

否则实在不知道该如何写

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还有~枕草子的那段原文是什么来着?

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这个~~~题目既然是源博雅小传,却只纠缠于叶二,是不是有点文不对题了啊~~~
色即是空,空即是色。

如果做不到,就做一个低调、蛋定、靠谱、牛逼的人吧。

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这只是一个章节的讨论...

主观主义...

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今天下午上班路上想到一点,忠实是鸟羽天皇的岳父,小枝的传说里又多次提到鸟羽天皇,是否暗示小枝是藤原忠实进献给鸟羽天皇的呢?
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《枕草子》第八八段《無名といふ琵琶の御琴を》
「無名といふ琵琶の御琴を、主上の持てわたらせたまへるに、見などして、掻き鳴らしなどす」といへば、弾くにはあらで、緒など手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとか」ときこえさするに、「ただいとはかなく、名も無し」とのたまはせたるは、「なほ、いとめでたし」とこそ、おぼえしか。
 淑景舎(1)などわたりたまひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿(2)の、得させたまへりし」とのたまふを、僧都の君(3)、「それは、隆円に賜へ。おのがもとに、めでたき琴はべり。それに替へさせたまへ」と申したまふを、ききも入れたまはで、異ごとのたまふに、「答へさせたてまつらむ」と、あまたたびきこえたまふに、なほ、ものものたまはねば、宮の御前の、「いなかへじと、思したるものを」とのたまはせたる御気色の、いみじうをかしきことぞ、かぎりなき。この御笛の名、僧都の君も、得知りたまはざりければ、ただ恨めしう思いためる。これは職の御曹司におはしまいしほどのことなめり。主上の御前に「いな替へじ」といふ御笛のさぶらふ、名なり。
 御前にさぶらふ物は、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄上、牧馬、井手、渭橋、無名など。また、和琴なども、朽目、塩釜、二貫などぞきこゆる。水龍・小水龍、宇陀の法師、釘打、葉二つ、なにくれなど、多くききしかど、忘れにけり。「宜陽殿(4)の一の棚に」といふ言草は、頭の中将(5)こそ、したまひしか。
(1) 中宮定子の妹で東宮淑景舎女御原子。(2) 中宮定子の父道隆。長徳元年四月十日薨去。年四十三歳。(3) 中宮定子の弟隆円。正暦五年(九九四)十一月五日任権少僧都。(4) 紫宸殿の東。その母屋には累代の御物が納められ、一の棚は第一級品が置かれた。(5) 藤原斉信。頭中将は正暦五年八月二十八日から長徳二年(九九五)四月二十四日まで。
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我觉得关于叶二、杨枝和小枝的关系可以当作一个大胆的假说来写,这种事情比较像日本人做的。
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俺也是这么想的啊~~

补充些日史的讨论~

1、醍醐朝,博雅三位擅长吹笛,但是他吹的笛子的名字,史书没有写
2、一条朝,宫廷中有一支笛子,叫做叶双、又名叶二,但一条天皇之前的笛子的主人是谁不知道;
3、一条朝,有一天叶二上的红叶子掉下来了,成不了“双”或“二”,就改叫青叶了
4、鸟羽朝,制作了一把笛子,在命名时,参考了一条朝的名笛叶二/青叶,将这管新笛命名为小枝
5、著书人,当写到擅长吹笛的博雅三位时,决定为博雅的笛子编造一个名字,偶尔想到一条朝的名笛叶二,觉得一条朝和醍醐朝相隔不算太远,而叶二这样的名笛又配的上博雅三位的身份,于是把博雅三位的笛子附会为叶二

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补充些资料~~

 さる程に、鬼界が島の流人ども少将成経と、康頼入道は、本より熊野信心の人々にておはしければ、

 「この島の内に三所権現を勧請し奉って、帰洛の事をば祈らばや」と、云ふに、俊寛は、不信第一の人にて、これを用いず。

 二人は熊野に似たる所もやあると、尋ね回るに、「この峯は新宮、かれは本宮これは王子」など、日ごとに熊野詣のまねをして、「願はくは憐れみを垂れさせおはしまし、今一度故郷へ帰し入れさせ給いて、妻子をも見せしめ給へ」とぞ祈りける。

 ある夜、又二人参って通夜したりける夢に、沖より吹き来る風に、なぎの葉二つ吹きかけたり。二つのなぎの葉に、一首の歌を虫くひにこそしたりければ、
 
        ちはやぶる神に祈りの繁ければ
              などか都へ帰らざるべき

 康頼入道は、余りに故郷の恋しきままに、千本の卒塔婆を作り、梵字、年号、実名、二首の歌をど書き付けける。
 
       薩摩がた沖の小島にわれありと
                    親には告げよ八重の潮風

 これを浦に持って出でて沖つ白波の寄せては返す度毎に海に浮かべければ、その中の一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚にうちあげたり。
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この「葉二つ」にまつわる話。
藤原頼通は、名笛「葉二つ」を所持していた。帝がそれを知って、是非見たいと使いの者を送った   使いは「帝が『はふたつ』をご所望であります」と頼通に告げた。                 頼通は「さてさてこの爺から歯を二つ出せとは余りにも酷でございます」と返書を送った。 
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てぞ下向しける、かく詣づる事こぞの八月より懈らず、さるほどに、同九月上旬にもなりにけり、或日本宮に詣で、法施をつくづくと手向け奉てありければ、いつよりも信心肝にめいじ、五体に汗出て、身の毛よだち、ごんげんこんごう童子の御影向も忽にある心地して、嵐すごく吹おろして、木の葉かつちりけるに、なぎの葉二つ、康頼がひざに散りかかる
を見れば、一は帰雁とむしくひたり、一には二文字をくひたり、又よくよく見れば、歌を一首むしくひたるを見出したり、千早振神のいかきを頼む人などか都にかへらざるべき
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看起来,平家物语里关于“叶二”的记载很多啊,不过汉译版似乎没发现,或许这又是一个突破口

[ 本帖最后由 宇都宫雅人 于 2007-11-30 07:59 编辑 ]

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引用:
原帖由 江城梅花引 于 2007-11-29 22:16 发表
我觉得关于叶二、杨枝和小枝的关系可以当作一个大胆的假说来写,这种事情比较像日本人做的。
我一般证据和线索分得是很清楚的,叶二、杨枝之间的关系现在只能算是线索。除非能找到较早的资料作为辅证,否则难有说服力。

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俺决定了~~

重点开始变化

原定博雅小传改为关于叶二的假说论证

(反正小传的内容也不是很多,就变成附属内容好了)

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有没有可能说,叶二只是泛称

就象龙泉、太阿什么的

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申非译本里,成经那一段译为:“又有一次守夜,同样在朦胧睡梦之中看见从海面上有风吹来,把两片树叶吹到二人的衣襟上来。顺手拿来看时,乃是熊野竹柏的叶子,在那两片叶上有一首歌,是虫子咬破的空洞显示出来的云云。”
高野本原本作:又或夜二人通夜して、おなじうまどろみたりける夢に、おきより吹くる風の、二人が袂に木の葉をふたつ【二つ】ふきかけたりけるを、何となうと【取つ】て見ければ、御熊野の南木の葉にてぞ有ける。彼二の南木の葉に、一首の歌を虫くひにこそしたりけれ。
可见是风吹来两片叶子,而非彼等在吹名笛叶二。
又:后面这两段不是《平家物语》吧?
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