re:另外 源自 フリー百科事典http:...
另外 源自 フリー百科事典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
日本の国旗
起源
日章旗の起源はよくわかっていないが、日本人は古来、太陽を信仰の対象としており、聖徳太子も隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子―」で始まる手紙を送るなど、また国名「日本」(日ノ本)というところからも太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を大切にしていたことが窺える。
世界的に太陽が赤で描かれることは珍しく(太陽は黄色、また月は白で現すのが一般的である)、日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことが一般的であったというわけではない。例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。また711年(大宝元年)の文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。これは世俗的にも共通した表現であったようであり、『平家物語』などの記述などからも平安末期の頃までの日輪の表現は通常赤地に金丸であったと考えられている。
対して赤い真円で太陽を表現する系譜は、中国漢時代の帛画に遡る(上の日像幢と同様に内側に黒い烏を配するものである)。日本での古い例としては、法隆寺の玉虫の厨子の背面の須弥山図に、赤い真円で表された日象が確認される。また平安時代においても密教図像などに見出される表現であり、中国から仏教とともにもたらされた慣習であると推測される。こうした表現が原型となり、白地赤丸の日章旗が生まれたと考えるのが妥当であろう。なお日本では紅白がめでたい色とされており、日章旗が定着していった事実は日本人の精神構造を知るうえで興味深い。
現存最古の日章旗としては、雲峰寺所蔵のものが知られる。これは後冷泉天皇より源義光(新羅三郎)が下賜されたという伝承をもっており、「御旗」(みはた)と呼ばれ義光の系譜である甲斐武田家に家宝として伝来した。その伝来を無条件に信じるわけにはいかないが、中世前半に遡る遺例として貴重である。また同じく中世の日章旗としては、奈良の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られるが、これは現在盗難に遭っている。
江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、近世には簡易な装飾として普及していた。特に狩野派なども赤い旭日の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。
また江戸時代後期には薩摩藩の船印として用いられており、開国後は幕府が日本国共通の船舶旗(船印)を制定する必要が生じたときに、薩摩藩からの進言(進言したのは薩摩藩主、島津斉彬だといわれる)で日章旗を用いることになった。一般的に日本を象徴する旗として公式に用いられるようになったのはこれが最初であるとされるが、戊辰戦争時には官軍が菊花旗、幕府側が日章旗を用いており、国旗として扱われるようになったのは明治以降である。
国旗制定と法制化
1870年(明治3年)制定の太政官布告第57号商船規則に基づき、日本船の目印として採用されて以来、日本の国旗として使用されてきた。商船規則による日章旗の規格は現行とは異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。
以来、慣習的に国旗として扱ってきたが、第二次世界大戦でアジア各地に日章旗が翻ったことを理由に、中国・韓国・北朝鮮・フィリピンなど、第二次大戦で日本軍による住民の被害が多かったり、独裁政権が長く続いた国や地域で、日章旗に対する嫌悪感が示されることがある。例えば、中国では日本が中国を占領下においたときの国旗であるので、支那の呼称とともに日章旗を中国で掲げることに感情的な抵抗があるという意見がある。また日本に対する抗議デモなどで、日の丸が燃やされることもしばしば起こっている。戦後の日本国内においても、いわゆる革新・左翼勢力(主に日本教職員組合)などからは日章旗への反発が根強くあり、日章旗の存続是非に関する議論が長い間なされてきた。その一方で、戦後の米軍統治下の沖縄では、左派、右派を問わず、日章旗が祖国復帰を求める県民のナショナリズムの象徴として扱われてもいた。
1990年代末から、各地の高校や大学の入学式で日章旗を掲揚するか否かの議論が高まり、1999年(平成11年)施行の国旗国歌法により、正式に国旗として定められた(ただしあくまで憲法の範囲内であり、これによって表敬・崇敬の強制をするものではないとの首相による憲法解釈が存在する)。教育における国旗掲揚の意見対立について、詳しくは国旗及び国歌に関する法律を参照。
なお、大喪時の掲揚方法は、大喪中ノ国旗掲揚方(大正元年閣令第1号)に定められている。
デザインについて
「日章旗の制式の特例」の形式で描いた日章旗国旗国歌法によれば、旗の中心(対角線の交点)を中心とし、縦の長さの5分の3を直径とした円を描くのが正式である。なお、日の丸の赤は法律では「紅」となっているが、実際には金赤が使われることが多い。
長らく慣行として、縦横比を7対10とし、日章を旗の中心より旗竿側に100分の1近づけた点を中心として描く日の丸が利用されてきたために、同法の付則では当分の間こちらでもよいことになっている。日の丸と白地のバランスとしてはこちらの方が安定しているともいわれる。
余談としては、明治初期に、日の丸のデザインに惹かれたフランスが(一説にはイギリスが)維新後の財政難の日本政府に対し、当時の金額にして500万円で日の丸を買収したいと申し出てきたことがある。だが日本側は「国旗を売り渡すことは、国家を売り渡すこと」と考え、日の丸売却の話は一蹴された。
その他
日本の自衛隊航空機は、国籍識別マークとして赤丸に白い縁取りを採用している。これは旧日本軍時代と同様である。
白米の真ん中に梅干しを一個のせた弁当を「日の丸弁当」と呼ぶ。
国家公務員や三公社五現業のように、国家や公社が行う事業とそこで働く人間の態度を、危機意識が欠けているなどの批判的な意味で、「親方日の丸」と呼ぶ事がある。
唱歌「日の丸の旗」
日の丸の旗(1911年)
1911年(明治44年)、高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲で、「日の丸の旗」が「尋常小学唱歌」に発表された。
一
白地に赤く
日の丸染めて、
ああうつくしや、
日本の旗は。 二
朝日の昇る
勢見せて、
ああ勇ましや、
日本の旗は。
ヒノマル(1941年)
1941年(昭和16年)に刊行された「ウタノホン」では、一部の歌詞を口語調に改めて再発表された。
一
アヲゾラ タカク
ヒノマル アゲテ、
アア、ウツクシイ、
ニホンノ ハタハ。 二
アサヒノ ノボル
イキホヒ ミセテ、
アア、イサマシイ、
ニホンノ ハタハ。
日の丸(戦後)
戦後には、1911年の当初の1番と、1941年の口語調の1番が、それぞれ1番2番とされ、小学校低学年の音楽の授業で教えられることもある。
一
白地に赤く
日の丸染めて
ああ美しい
日本の旗は 二
青空高く
日の丸あげて
ああ美しい
日本の旗は