計略の将
真田信之――「真田家」を守り通した名君
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真田信之の軌跡
徳川家に忠義を尽くした信之
真田幸村の1歳上の兄である信之(1566~1658)は、長命で93歳まで生きた。
生まれたのは織田信長が急速に台頭したころ、没したのは四代将軍・徳川家綱の時代であり、信之は〈群雄割拠の戦国時代→豊臣秀吉の天下統一→徳川家康の幕府開設〉の移り変わりを、リアルタイムで見てきた希有の大名だ。
彼は「関ヶ原の戦い」のころ(1600)に改名した。同じ発音ながら、前半生は信幸、後半生は信之として生きたのである。そこで「信幸→信之」の視点に立って、これまで述べてきたことをフィードバックしてみたい。
さて、信之の若いころの話は意外と伝わっていない。確かなこととして信幸・幸村兄弟は、武田氏への人質として甲府や新府城にいたが、武田氏が滅亡した1582(天正10)年に、新府城から父・昌幸のもとに戻った。信幸は17歳にして、強大だった武田帝国の崩壊を目のあたりにしたのである。
その前のことであろう。『滋野世記』には「勝頼の嫡子・信勝が元服したときに、彼も元服して武田氏の一字・信を諱に用いた」と記されている。繰り返すが「信」は武田氏代々の、「幸」は海野氏代々の通字である。
武田滅亡の直後から信幸は、昌幸の右腕としていくたびかの合戦に登場してくる。おそらく初陣はその年の8月、上野・沼田城攻撃であろう。ちょうど沼田を北条方が占拠していたころだ。
この沼田領紛争が合戦にまで紛糾して、徳川軍が信濃・上田城まで押し寄せてきたのが、3年後の1585(天正13)年8月。これが「第1次上田合戦」であり、20歳の信幸は出城・戸石城を守り、父と協力して徳川軍の撃退に成功する。
その後、昌幸が徳川与力大名になったことから、秀吉の沼田領裁定があった年(1589)に、信幸は家康のもとに人質として赴く。
ここに信幸(24歳)の徳川家出仕がスタートし、妻も娶る。徳川四天王のひとり・本多忠勝の娘(後の小松殿)である。
さらに信幸は「北条征伐」の後、1589(天正17)年には家康から沼田城を与えられ、徳川与力大名に取り立てられた。信濃・上田領が安房守昌幸、上野・沼田領が伊豆守信幸と、父子でふたつの大名家がここに成立する。江戸時代の言葉で言えば、上田藩と沼田藩という独立した藩となり、房州家、豆州家と表現してもいい。
どうやら信幸は沼田の地を愛したようだ。というのも信幸は、関ヶ原の後に父の旧領・上田領を与えられたが、沼田城に在城したままで上田領の統治を行っているからだ。
実際に彼が上田城に本拠を移すのは、「大坂夏の陣」(1615)の翌年のことであり、大名取立て以来27年間を沼田で過ごしたことになる。
信之の「犬伏の別れ」
関ヶ原の合戦前夜の「犬伏の別れ」に始まる真田一族の分離行動、謎めいた昌幸の上田城籠城などは、関東乱入を目指した上杉景勝に昌幸が加担したことに起因する。
そのことは前に述べたが、改めて推測も交えながら、信幸の立場から記しておきたい。
1600(慶長5)年6月、上洛中だった信之は、「上杉征伐」(豊臣政権の「惣無事令」違反)に向かう徳川家康にしたがって昌幸・幸村とともに東海道を下る。そして軍勢を整えるために、昌幸・幸村は上田、信幸は沼田へと戻る。
どうやら一足先に信幸は沼田を出発して、宇都宮いいた徳川秀忠の軍に参加したようだ。一方、上田を発した昌幸・幸村は、7月21日に下野・犬伏に着陣し、ここで石田三成からの「上方謀反」計画の書状を受け取る。
そこで昌幸は宇都宮から信幸を呼び寄せて、父子間の話し合いの結果、有名な「家名存続のために昌幸・幸村は西軍(石田三成方)、信幸は東軍(徳川家康方)に属することを決めた」の話へとつながり、一族の分離行動=「犬伏の別れ」となる。
犬伏の地は、上杉征伐軍が陣を敷く小山に約20キロ、比較的近い場所だ。そのために、従来ほとんど検証されることなく、「昌幸の進軍は小山の上杉征伐軍に合流するのが目的」と既成事実化されてきた経緯がある。
しかし実際の昌幸は、前述のとおり景勝に味方する決意を固めて、軍勢を率いて犬伏までやってきたのだ。もちろん、表面上は上杉征伐への従軍、小山参陣を偽装していた可能性は十分にある。
父子分離行動の真実
上記のことを前提とすれば、父子会談はおおよそ以下の内容だった、と思われる。
① 両者の対立点
昌幸は上杉景勝の恩顧(第2次上田合戦の援軍、沼田領問題での景勝の奔走)を主張し、真田一族としての統一行動を信幸に求める。
昌幸の思惑は景勝への援兵として、犬伏から直接会津入りを目指すことにある。かつて越後国内で叛乱が起きたときにも、幸村の名で援軍を景勝に送ったこともある。
それに対して、信幸は自らの徳川家康の恩顧(大名取立て)を訴えて同行を拒絶する。信幸からすれば、すでに上杉は旧恩であり、徳川が新恩となる。