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[录入]计略之将——真田信之(日文版)
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作者:
北鎌倉の紫
时间:
2006-2-3 22:30
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[录入]计略之将——真田信之(日文版)
2 その後の真田一族
信幸を襲った「大坂の陣」の余波
関ヶ原の戦いの後、真田信之が9万5千石(信濃・上田領と上野・沼田領)の大名となったことはすでに述べた。
1614(慶長19)年の大坂冬の陣のとき、信之(49歳)は病気のために出陣できず、その代わりに長男・信吉(19歳)と次男・信政(18歳)の兄弟を従軍させた。兄・信吉の母は長篠の戦いで戦死した真田信綱の娘、弟・信政の母は小松殿(本多忠勝の娘)である。
兄弟に付き添ったのは、家老・矢沢頼康、小山田主膳之知などであり、行軍中の矢沢頼康宛てに信之は「何事も油断なく肝煎り(世話)を頼みます」と書き送っている。頼康は、かつて幸村が上杉景勝の人質になったとき、同行した人物である。
真田隊は本多忠朝(忠勝の子、小松殿の弟)に属して、大坂城の城東・今福方面の備えに付いた。従って持ち場が異なり、幸村が立て籠もる城南・真田丸への攻撃には参加していない。また幸村への降伏勧告も、幸村の叔父である旗本・真田信尹に委ねられ、大名家の真田氏は関わっていない。
講和成立後、真田隊は大坂城の堀埋め立て工事に従事した。そのころ、小山田之知はたびたび幸村と面会したようだ。之知は幸村の姉・村松殿の子供、すなわち幸村の甥に当たる。
そのことは、幸村の姉宛の書状にも「主膳殿には何回かお会いしましたが、こちらが取り込んでいたので、ゆっくりはお話できていません」と記されている。幸村が旧臣・矢沢頼康と酒を酌み交わした、という話も残っている。
1615(慶長20)年の大坂夏の陣のころも、信之は病床に臥せいていたようだ。このときも信吉・信政兄弟が本多忠朝に属して参戦した。忠朝は毛利勝永隊のために戦死を遂げるが、真田隊には大きな被害は発生せず、幸村と直接戦闘を交えることもなく合戦は終わる。
そして「元和偃武」、平和の到来である。だが、思いがけない余波が信之を襲った、と伝えられる。その年の冬、ある事件で追放されていた家臣・馬場主水が江戸に行き、老中宛に「大坂の陣で信之は幸村と気脈を通じていた」という内容の訴状を提出したのだ。
「主人・伊豆守(信之)には叛逆の意思があります。冬の陣のときは、幸村に援兵を送り籠城させました。また夏の陣では密かに幸村と謀って、河内守信吉と内記信政に先陣を切らせるために、幸村は合図の旗を上げました」(『明良洪範』)
これに対して、信之は徳川氏への忠誠を披露して事なきを得る、というのが訴訟事件の概要だ。
しかし、この逸話自体に疑わしい面がある。当時はまだ「幸村」という表記は定着しておらず、「信繁」などがポピュラーであり、内容も「いかにも」の感が強い。戦場では、功名をチェックする軍監がつねに眼を光らせている。
松代藩の成立
1620(元和6)年に妻・小松殿に先立たれた信之は、その2年後に信濃・上田から松代への転封を命じられる。
松代城は、かつて川中島に立てられた海津城の後身であり、甲信越を結ぶ要地にある。ここで述べておくと、「川中島の戦い」で戦死した武田典厩信繁の墓が松代にあったが、荒れ果てていたので、信之が改葬して「典厩寺」としたという。
江戸時代に入ってからは、松代は越後・高田藩の「川中島領」的な色合いが濃かったが、前城主・酒井忠勝が出羽・鶴岡(庄内藩)に転封になったことに伴い、信之は江戸に呼ばれて、その場で玉突き人事が発令された。
余談ながら酒井氏には大きく二つの流れがあり、この酒井忠勝(徳川四天王・忠次の孫)は「酒井左衛門尉」家であり、老中を務めた酒井忠勝の方は「酒井雅楽頭」家である。ほぼ同時代に、一族で同じ諱の持ち主が2人。このことは、諱が日常では用いられなかった証左といえよう。
転封とともに信之は加増され、松代藩10万石の大名となる。かつての村上義清の所領地であり、郡で言えば更科、埴科、水内、高井の「川中島4郡」の中で、善光寺もその領内になる。なお、すでに沼田領3万石は長男・信吉の所領となっている。
その当時の藩の数は約270藩前後で、将軍・秀忠による大名改易処分(跡継ぎ不在や「武家諸法度」違反)は後を絶たなかった。
従って表面上は信之も「参府したところ川中島で過分の知行を拝領いたしました。ことに松代は名城といわれ、北国の要です。その地を拙者に任せる、と将軍直々の仰せでした。誠に家の面目が立つ幸せです。」(信之書状)としているが、実際はあまり乗り気ではなかったようだ。
というのも、上記の出浦対馬守盛清宛の書状の追記に「私も老後になり、何事でも不要になっていますが、これも子孫のためなので松代に移ります。ご心配なさらずに」と記しているからだ。このとき、信之は57歳。多少、愚痴が入っている。
ちなみに出浦盛清とは上野・吾妻郡にいた家臣で、武田信玄に透波(忍者)として仕えた者の孫に当たり、彼自身も忍者だったという説もある。
御家騒動に悩まされた信之の晩年
信之は長命だったので、妻のみならず息子3人(信吉・信政・信重)にも先立たれてしまう。そのために信之は死ぬ間際まで、一族に分知した所領問題、それに起因する御家騒動に悩まされ続ける。
1634(寛永11)年、将軍・徳川家光の時代。沼田3万石の藩主・信吉(42歳)が病死したため、幼少の嫡男・熊之助が跡を継いだ。
後見人がいれば、幼くとも相続は可能である。幕藩体制において、将軍が徳川家の世襲を前提としている以上、藩主も同様になる。言い換えれば、平和な時代では将軍や藩主はその器量(能力)ではなく、血筋が尊ばれる。
だが、熊之助も4年後には早世してしまう。さすがに残された次男(後の信利)は幼児だったので、沼田3万石は〈孫・信利=5千石、次男・信政=1万5千石、3男・信重=1万石〉と分封され、次男・信政が沼田を統治することになった。以来、大雑把にいえば真田一族は「松代藩=信之、沼田藩=信政」体制を敷き、20年近い歳月が流れる。
その間に3男・信重死去に伴う異動もあるのだが、1657(明暦3)年に老齢の信之(92歳)は幕府に対して隠居とともに、〈松代10万石=次男・信政、沼田3万石=孫・信利〉の分知を願い出る。
現代でいえば、会社オーナーの信之がリタイヤを認められて、長年子会社の社長を務めた次男を、親会社の社長に据えたイメージだ。
ようやく隠居できた信之は、出家して一当斎と号した。祖父・幸隆は一徳斎、父・昌幸は一翁を名乗っており、法号にも通字「一」の存在が窺える。
かくして信政が松代藩二代藩主となり、沼田城から家臣(沼田衆)を連れて入封するが、わずか半年後の1658(万治1)年2月に62歳で病死を遂げる。ここで再び後継者問題が発生する。というのも、信政は側室の子供たちを他家に養子に出すなどしており、身近には2歳の幼児(後の幸道)しかいなかったのだ。
死を予感していた信之は、幕府・老中と家臣宛に「幸道に家督を継がせたい」という遺言状を認めていた。しかし信政は父・信之とは相談していなかったので、家臣は信之の意向を懸念した。
信之がもう一方の孫・信利を松代藩三代藩主に推す可能性があるからで、家臣団も従来の「上田衆(川中島衆)」と新参の「沼田衆」との間に意見の食い違いがある。家臣団にも距離の壁と百年の歳月が、否応なく襲う。オーナーだった信之からすれば「松代・沼田は一体」かもしれないが、家臣には「独立した藩で知行をもらっている」という現実がある。
そこで信之は信政の遺言どおり、幕府に幸道の家督相続を願い出るが、今度は親戚筋の高力高長(肥前・島原藩主で信之の娘の子)から「信利に継がせるべき」という意見が寄せられる。
実は信利の母は酒井忠世(「雅楽頭」家)の娘であり、四代将軍・家綱のもとで権勢を振い「下馬将軍」といわれた大老・酒井忠清の叔母にあたる。その関係から酒井忠清も信利を三代藩主に推薦する。
当然、家臣団の意見も割れ、相続をめぐる両派「幸道派VS信利派」の争いは激化したが、多数派となった幸道擁立派が「信利が後継者に決まれば、籠城して死も辞さない」と主張したために、騒動を懸念した酒井忠清も幸道の家督相続を認めた。1658年6月のことであり、信政の死後4ヶ月で真田騒動は決着を見た。
2歳の孫・幸道の後見人となった信之は、その年の10月に病死を遂げる。93歳の高齢だった。関ヶ原からすでに60年近い歳月が流れ、徳川将軍家も四代・家綱の時代となっている。間違いなく大名クラスでは彼こそが、武田信玄・勝頼、豊臣秀吉、徳川家康、石田三成などの歴史的な武将と接した最後の人物であろう。
後日談がある。信之は27万両もの遺金を残した、という。なぜ、それほどの蓄財ができたのかは分かっていない。憶測を逞しくすれば、信濃最大の経済都市・善光寺を所領として以来の蓄財なのかもしれない。
ともあれ、沼田藩の信利がその分配を求めて訴訟を起こす。所領問題の次に控えていたのは、遺産問題だった。再び酒井忠清が信利の後押しをするが、結果は松代藩の勝訴に終わる。
廃藩置県まで続いた松代藩
1680(延宝8)年、江戸・両国橋の修復工事に伴い、幕府は沼田藩に対して材木提供(普請役)を命じるが、トラブルが続出したために真田信利は材木の納入ができなかった。その結果、翌年に沼田藩は改易される。
真田三代――。まず幸隆が一所懸命に働き、次に昌幸が強大な勢力の狭間の中で守り続け、そして信之が初めて大名となった「沼田」の地は、百年の歳月を経て、ここにあっけなく真田支配が終わってしまう。
以後の真田氏は、松代藩の歴史となる。
藩主は〈三代・幸道=四代・信弘―五代・信安―六代・幸弘=七代・幸専=八代・幸貫=九代・幸教=十代・幸民〉と続き(=は養子)、幸民のときに明治維新を迎え、彼が最後の藩主となる。
ある意味で松代藩の歴史は、洪水・地震などの自然災害との戦いである。そのために百姓一揆も起こったりして、さしもの藩財政は窮乏し、その再建が最大の課題となる。
そこで1755(宝暦5)年、家老・恩田杢民親が六代・幸弘から全権委任を受けて、財政改革に乗り出し、徹底した節約、賄賂の禁止、家臣の俸禄の見直し、殖産興業などを打ち出す。その著『日暮硯』は、イザヤ・ベンダサンの名著『日本人とユダヤ人』で紹介されて以来、かなり知られるようになった。
八代・幸貫は「寛政の改革」を行った幕府老中・松平定信(八代将軍・吉宗の孫)の子として生まれ、真田家に養子で入った。彼は外様大名としては異例なあら、老中となって幕政に参加し、松代藩では洋学者・佐久間象山を登用したことでも知られている。
余談ながら開国論を唱えた象山は、1864(元治1)年に京都で尊皇攘夷派の志士に暗殺される。後に肥後の「人斬り彦斎」こと河上彦斎が犯行を自供するが、当時は判らなかったので象山の妾腹の子・三浦啓之助が、仇討ち探しのために新撰組へ入隊する。ついでにいえば、象山の正妻は勝海舟の妹である。
最後の藩主・幸民は、「幕末の四賢侯」といわれた名君・伊達宗城(伊予・宇和島藩主)の次男に生まれ、真田家の養子となった。戊辰戦争では新政府軍に協力し、1869(明治2)年には朝廷に藩籍返還を行う。
その2年後には廃藩置県が実施され、ここに信之以来約250年に及んだ「松代藩」が終焉のときを迎えた。
作者:
真田豪
时间:
2006-2-3 23:52
标题:
re:呵呵,才看到~~~~~`阿紫你好人做到底...
呵呵,才看到~~~~~`阿紫你好人做到底,干脆帮我汉化了罢~~`多谢多谢!开心~~~``
作者:
真田豪
时间:
2006-2-3 23:54
标题:
re:另外,这是哪里弄来的资料呀?不会是阿紫你...
另外,这是哪里弄来的资料呀?不会是阿紫你从书上敲下来的吧?能给出网址么?
作者:
北鎌倉の紫
时间:
2006-2-4 11:17
标题:
re:手工录入。自从我不做语文课代表后,中...
手工录入。 自从我不做语文课代表后,中文就不够用。等我翻好,黄花菜都凉了。你大致看看有没有意思,想要哪部分我再告诉你。我估计你都有了,就算再加一本参考资料吧。 相川司《真田一族——家康畏惧的最强军团》。
作者:
北鎌倉の紫
时间:
2006-2-4 13:25
标题:
re:[ALIGN=CENTER]計略の将...
計略の将
真田信之――「真田家」を守り通した名君
1
真田信之の軌跡
徳川家に忠義を尽くした信之
真田幸村の1歳上の兄である信之(1566~1658)は、長命で93歳まで生きた。
生まれたのは織田信長が急速に台頭したころ、没したのは四代将軍・徳川家綱の時代であり、信之は〈群雄割拠の戦国時代→豊臣秀吉の天下統一→徳川家康の幕府開設〉の移り変わりを、リアルタイムで見てきた希有の大名だ。
彼は「関ヶ原の戦い」のころ(1600)に改名した。同じ発音ながら、前半生は信幸、後半生は信之として生きたのである。そこで「信幸→信之」の視点に立って、これまで述べてきたことをフィードバックしてみたい。
さて、信之の若いころの話は意外と伝わっていない。確かなこととして信幸・幸村兄弟は、武田氏への人質として甲府や新府城にいたが、武田氏が滅亡した1582(天正10)年に、新府城から父・昌幸のもとに戻った。信幸は17歳にして、強大だった武田帝国の崩壊を目のあたりにしたのである。
その前のことであろう。『滋野世記』には「勝頼の嫡子・信勝が元服したときに、彼も元服して武田氏の一字・信を諱に用いた」と記されている。繰り返すが「信」は武田氏代々の、「幸」は海野氏代々の通字である。
武田滅亡の直後から信幸は、昌幸の右腕としていくたびかの合戦に登場してくる。おそらく初陣はその年の8月、上野・沼田城攻撃であろう。ちょうど沼田を北条方が占拠していたころだ。
この沼田領紛争が合戦にまで紛糾して、徳川軍が信濃・上田城まで押し寄せてきたのが、3年後の1585(天正13)年8月。これが「第1次上田合戦」であり、20歳の信幸は出城・戸石城を守り、父と協力して徳川軍の撃退に成功する。
その後、昌幸が徳川与力大名になったことから、秀吉の沼田領裁定があった年(1589)に、信幸は家康のもとに人質として赴く。
ここに信幸(24歳)の徳川家出仕がスタートし、妻も娶る。徳川四天王のひとり・本多忠勝の娘(後の小松殿)である。
さらに信幸は「北条征伐」の後、1589(天正17)年には家康から沼田城を与えられ、徳川与力大名に取り立てられた。信濃・上田領が安房守昌幸、上野・沼田領が伊豆守信幸と、父子でふたつの大名家がここに成立する。江戸時代の言葉で言えば、上田藩と沼田藩という独立した藩となり、房州家、豆州家と表現してもいい。
どうやら信幸は沼田の地を愛したようだ。というのも信幸は、関ヶ原の後に父の旧領・上田領を与えられたが、沼田城に在城したままで上田領の統治を行っているからだ。
実際に彼が上田城に本拠を移すのは、「大坂夏の陣」(1615)の翌年のことであり、大名取立て以来27年間を沼田で過ごしたことになる。
信之の「犬伏の別れ」
関ヶ原の合戦前夜の「犬伏の別れ」に始まる真田一族の分離行動、謎めいた昌幸の上田城籠城などは、関東乱入を目指した上杉景勝に昌幸が加担したことに起因する。
そのことは前に述べたが、改めて推測も交えながら、信幸の立場から記しておきたい。
1600(慶長5)年6月、上洛中だった信之は、「上杉征伐」(豊臣政権の「惣無事令」違反)に向かう徳川家康にしたがって昌幸・幸村とともに東海道を下る。そして軍勢を整えるために、昌幸・幸村は上田、信幸は沼田へと戻る。
どうやら一足先に信幸は沼田を出発して、宇都宮いいた徳川秀忠の軍に参加したようだ。一方、上田を発した昌幸・幸村は、7月21日に下野・犬伏に着陣し、ここで石田三成からの「上方謀反」計画の書状を受け取る。
そこで昌幸は宇都宮から信幸を呼び寄せて、父子間の話し合いの結果、有名な「家名存続のために昌幸・幸村は西軍(石田三成方)、信幸は東軍(徳川家康方)に属することを決めた」の話へとつながり、一族の分離行動=「犬伏の別れ」となる。
犬伏の地は、上杉征伐軍が陣を敷く小山に約20キロ、比較的近い場所だ。そのために、従来ほとんど検証されることなく、「昌幸の進軍は小山の上杉征伐軍に合流するのが目的」と既成事実化されてきた経緯がある。
しかし実際の昌幸は、前述のとおり景勝に味方する決意を固めて、軍勢を率いて犬伏までやってきたのだ。もちろん、表面上は上杉征伐への従軍、小山参陣を偽装していた可能性は十分にある。
父子分離行動の真実
上記のことを前提とすれば、父子会談はおおよそ以下の内容だった、と思われる。
① 両者の対立点
昌幸は上杉景勝の恩顧(第2次上田合戦の援軍、沼田領問題での景勝の奔走)を主張し、真田一族としての統一行動を信幸に求める。
昌幸の思惑は景勝への援兵として、犬伏から直接会津入りを目指すことにある。かつて越後国内で叛乱が起きたときにも、幸村の名で援軍を景勝に送ったこともある。
それに対して、信幸は自らの徳川家康の恩顧(大名取立て)を訴えて同行を拒絶する。信幸からすれば、すでに上杉は旧恩であり、徳川が新恩となる。
作者:
真田豪
时间:
2006-2-4 19:59
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re:手工录入?!感激感激!信之绝对是位值得重...
手工录入?!感激感激!信之绝对是位值得重新对其评价的人才呀,呵呵~~~~~今天吃得太多,就不码字了,明天再说~~~
作者:
北鎌倉の紫
时间:
2006-2-6 19:15
② 上方謀反への見解
首謀者である石田三成・大谷吉継は、昌幸・幸村にとって縁戚であり、連携協力姿勢を示す。ただし、一族が直面するメインテーマは「上杉加勢」、「会津入り」(上杉恩顧)であり、「上方謀反」(豊臣恩顧)はサブ的な要素が強い。
事前に計画の情報連携がないままに、突然の書状をもらっただけで、その場で一族の進退を昌幸が「白か黒か」とばかりに即断すること自体、まず常識ではありえない話であろう。まして出陣中の出先である。
昌幸の〈親・三成〉のスタンスに対しても、家康の器量(能力)を高く評価している信幸は難色を見せる。また信幸は4歳の次男・信政を、江戸に人質として差し入れてもいる。
ただし、最大の問題点は「7月17日付けの大坂発の書状を、物理的に4日後の21日に受け取れるのか」ということだ。しかも密使は、どうやって昌幸が犬伏にいることを知ったのだろうか。
ちなみに、別の書状では〈上田城(昌幸)→佐和山城(三成)で9日間を要しているケースもある。何か犬伏のエピソードは、根底から再検証する必要があるのかもしれない。
③ 上田城籠城
昌幸は「間違いなく信幸も自分に従い、統一行動をとる」と考えていたのであろう。信幸の領する沼田は景勝の尽力で獲得した所領なのだ。むしろ家康が敵対者であり、第1次上田合戦まで戦った相手である。
しかし、徳川氏に臣従する信幸の決意は揺るがなかった。信幸の拒否。それは一族の長・昌幸にとって、大きな誤算だったに違いない。
『滋野世記』では、昌幸が「このようなときに、父子が分かれるのも、家のためにはいいこともあるだろう」と語り、父子は納得した上で分離行動を取った風に記されているが、おそらく双方の主張はすれ違い、喧嘩別れに近い状態だったと思われる。
そして、「上方謀反」という思いがけない事態に遭遇した昌幸は、上杉軍参加をあきらめて、慌しく兵を戻すのである。この間、一貫して幸村は父に従っている。
ところで真田一族としての統一行動を暗示するような書状が残っている。三成から昌幸に宛てた一連の連絡である。実はその中で、三成は「信幸が昌幸と一緒に行動している」と思い込んでいた節がある。
7月30日付けの三成書状ではラストに「豆州殿(信幸)、左衛門尉殿(左衛門佐・幸村)には別紙で申し入れていますが、貴殿(昌幸)からもどうぞよろしく仰ってください」と記し、8月5日の分も宛名が「昌幸、信幸、幸村」となっている。
その後、さすがに三成も信幸の動きに感づき「豆州の件はいかがでしょうか。心もとなく思います」と記すのだが、この事実は「周囲からも真田一族の統一行動が、当然視されていたこと」、加えて「信幸の動向を、昌幸が三成に伏せていたこと」を意味している。
昌幸は死ぬ直前まで信幸に会いたがっていた。その情愛を別にすれば、信幸の行動は、昌幸にとって、「棟梁として一族の結束を保てなかった」、一種の恥と感じたのではなかろうか。
なお「関ヶ原の合戦」のとき、父子で「西軍、東軍」に分かれたケースは、蜂須賀氏(阿波)や鍋島氏(肥前)などが存在する。これは渦中の諸大名にとっても恩顧もさることながら、現実問題として「関ヶ原」の勝敗が見通せなかったからだ。
しかし、信幸が直面したのは「上杉軍or徳川軍」の択一であり、単独挙兵に近い景勝に対する不安もあったのかもしれない。
諱を変えた信之の真意
「今度安房守罷り帰られ候処、日頃の儀を相違えず、立たれ候事奇怪千万に候」(7月24日徳川家康書状)
徳川家康が、犬伏の別れの直後に真田信幸に宛てたもので、「昌幸が帰ったにもかかわらず、従来からの約束を守り、徳川側となったことは珍重に値するこの上もないことです」という意味だ。
この書状のポイントは、ラストの奇怪千万にある。親に背いてまで志を替えず、家康に尽くそうとする信幸の行動を、家康自らが「滅多にないこと」と認めているのである。
さらに信幸は分離しただけでなく、徳川秀忠軍に属して父・昌幸が籠もる上田城への攻撃にも参加しているのだ。
いささか唐突かもしれないが、約60年前に武田氏で起きた「信虎・国外追放事件」を思い出していただきたい。上杉謙信はこの信玄のクーデターを「直親を国外追放するとは……」と、激しく非難した。信玄の出家にも、この事件が影響している。
そう、当時の価値観からすれば、信幸は「親に背き、さらに弓を引く」行為を犯したのである。
秀忠軍は関ヶ原に遅れたために、傘下の諸大名はほとんど論功行賞の対象にはならなかった。禄高据え置きである。
だが、上田の備えとして残留した信幸は、本領・沼田2万7千石に加えて父の上田領や新規所領を与えられて、一躍9万5千石の大名にまで出世する。この引き立ては、明らかに戦闘での功名や殊勲ではない。ひとえに彼の信念に基づくパフォーマンスが、レアケースだったからである。
そして、このころに信幸は諱を信之に改める。35歳の出来事だ。改名の理由については、「幸」を避けることで「罪人となった父・昌幸とのつながりを断つこと」の意思表示をしたというのが、一応の定説となっている。
確かに幕府の昌幸に対する評価は「公儀御憚りの仁」だから、そういう一面もあったかもしれない。しかし、その一方で彼は昌幸・幸村の助命を「所領に変えてでも」と家康や徳川氏の有力者に嘆願した、という話も伝えられる。いささか矛盾する話だ。
諱に関していえば、豊臣討伐後に将軍・徳川秀忠は、秀吉を祀った豊国神社を徹底的に破壊したにもかかわらず、みずからは改名せずに秀吉の「秀」をそのまま用いている。また大名家となった真田氏では、信之の孫・幸道の代から「幸」の字が復活している。
とすれば、信之への改名は対外的なアピールというよりも、彼自身の「意識の現われ」と考えるほうが自然であろう。
おそらく彼の気持ちの中には、「真田氏の嫡男でありながら父に従わなかった」ことの苦衷があり、父からの一字「幸」を遠慮するという行為に出たのではなかろうか。
むしろ、子が父を憚った、といっていい。そういう誠実な人柄だからこそ、父は死ぬまで子を愛し続けたのだろう。
作者:
北鎌倉の紫
时间:
2006-2-6 19:18
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re:这最后一段是犬伏之别和改名的推测,看看有...
这最后一段是犬伏之别和改名的推测,看看有没有用吧
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