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正徳2年(1712年)、父・家宣が病に倒れたが、このときの9月23日に家宣は新井白石と間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。家継の処遇は吉通に任せよ」というものと、「家継を将軍にして、吉通を家継の世子として政務を代行せよ」と遺言したと折りたく柴の記には記されている。そして家宣が死去した。すると新井白石は、「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、家宣の遺言を無視する形で、白石は家継の擁立を推進した。これに対して、幕閣の間では鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。また一説に家宣が、「家継の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・徳川五郎太か徳川頼方(徳川吉宗)の嫡男・長福丸(徳川家重)を養子として、吉通か頼方に後見させよ」と遺言したとされる。こうして家宣没後の正徳3年(1713年)4月2日、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。