安房守日(真田豪语录)

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补充 福岛正则改易之伊奈图书之首

家康时代的关东郡代伊奈氏,是小室藩主伊奈备前守忠次啊。忠次一直活到庆长十五年(1610),八年后其子忠治继任关东郡代,SO庆长三年没有这位关东郡代伊奈图书出场的余地。
文园渴甚兼贫甚,只典征裘不典琴。
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那就是主公误导……
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觉迷的说法也有可议之处,伊奈昭纲死时忠次已是拜领武藏小室、鸿巢一万三千石的谱代重臣了,并非因为昭纲一系断绝才轮到忠次出头。
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伊奈 昭綱(いな あきつな、生年不詳 - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。通称は根之助。一般には、百官名の伊奈図書(いな ずしょ)の名で知られる。

伊奈昭忠の次男で、嗣子のない兄・昭応の養子となって家督を相続する。天正18年(1590年)の小田原の役に従軍し、家康の関東入国とともに2500石を与えられる。慶長5年の上杉景勝征伐に際しては、景勝の反逆を確認する検分使として東北に派遣された他、関ヶ原の戦い直後には山城国日岡の関を守衛し、京の治安維持にあたった。

福島家との紛争と死
昭綱が日岡の守衛をしていた際、安芸広島城主の福島正則が、家老の佐久間嘉右衛門を伏見城の家康のもとへ使者として派遣した。だが、関の守衛であった昭綱の家人は佐久間が通行証をもっていなかったことを理由に通過を認めなかったのである。佐久間は広島に戻るや否や主君にこの理不尽さを訴え、面目を失ったとして自害して果てた。家康を牽制する必要もあって正則は佐久間の首を家康に送り付け、代償として関所の責任者である昭綱の切腹を要求した。家康は昭綱に命じて佐久間を追い返した家人を処刑させてその首を届けさせたものの、正則は当初の要求を取り下げなかった。仕方なく家康は昭綱を切腹させ、その首を差し出すことで解決をみたという。この事件は、後の元和5年(1619年)に幕府が正則を改易する遠因となったとも言われている。
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伊奈 忠次(いな ただつぐ)は、江戸時代初期の代官。

幼名は熊蔵。三河国幡豆郡小島城(現在の愛知県西尾市小島町)主の伊奈忠家の嫡男(祖父とされる伊奈忠基の末子との説もあり)。子に忠政、忠治、忠武、忠公、忠雪、長直、忠氏、内藤織部正正成室、宮田主馬室、向井忠宗室。備前守。初代武蔵国小室藩主。官位は備前守。

略歴
伊奈氏はもともと信濃国伊奈郡(伊那郡)の出自であると伝えられる。忠次の祖父忠基のころに徳川家康の父松平広忠に従い、三河譜代の家臣として活躍した家系である。永禄6年(1563年)父忠家の代に三河一向一揆に加わるなどして出奔、天正3年(1575年)の長篠の戦いに陣借りをして従軍して功を立て、ようやく帰参することができた。だが家康の嫡男であった信康の家臣に父忠家と共につけられるものの、その信康が武田氏との内通の罪により自刃させられてしまうと、再び出奔することとなってしまい、和泉国堺に在した。

天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた「伊賀越え」に小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父忠家の旧領小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後、吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や朝鮮の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。

家康が江戸に移封されたのちは関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献し、61歳で没した。墓所は埼玉県鴻巣市の勝願寺。

忠次の功績
武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において一万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈屋敷跡がある

諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民たちはもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたという。伊奈町は忠次が町名の由来である。子の忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となっている。

伊奈町音頭は「ハァ~伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出される。
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从上文可见,昭纲在关东入国时期只是两千五百石的旗本,最多算是德川手里比较有面子的亲信吧;而忠次则与大久保长安等三人共任关东代官,而且是小室藩主,所领过万,地位不一样的。
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是啊,而且还拼的是一个家康的亲信旗本。
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不过,佐久间作为福岛的家老,难道只有二百石知行?
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我引的那段日文资料里说是家老。
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也可能是异说,毕竟一个事实会发展出许多逸闻。如果有福岛家的家臣名录就好了。
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引用:
原帖由 真田豪 于 2009-11-2 11:07 发表
应该不是家老,哪有让家老跑腿传话送信的平时?~~~~
我引的那段文字说佐久间是去见家康的,但因为没通行证被拦了。如果从这个角度上说,可以说得通。当然佐久间本身是不是家老,那又是另一个问题了。
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嗯,听说过这回事,不过当时知道后主要感叹的是外样的处境居然如此艰难。
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哇,女版沉默的羔羊啊。
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