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求问~~关于上泉一文写作中的麻烦
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作者:
泥舟斋
时间:
2006-2-22 19:14
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求问~~关于上泉一文写作中的麻烦
天は高いから、いくら傲然としていても、天の迷惑にはならぬが信綱は、距する心でいるのである。地は厚いから、信綱がいくら荒く踏んだって、びくともするものではないが、歩く時にさえ、音さえ立てぬ位にする。この心懸けである。 这是对上泉“天锥高距、地锥厚不荒踏”之句的解说(有谦虚之意??),请教一下如何翻译比较通顺?? 附传书歌一首: 初めは我心にて迷ふものなり 吾と我、心の月の昙らして 余所の光を求めぬるかな 游身にならず仕悬ること第一也 解もせず、言も得ざりし所をも 知らぬ物ぞと知るぞ知るたれ 敌の动きの未だ无之以前に、先に进む志 少しにてもあれば云々 おのづから映ればうつるうつるとは 日もおもはず水も思はず 里はまだ降らざりけりと旅人の いふに山路の雪はながるる
作者:
泥舟斋
时间:
2006-2-22 20:19
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re:大胡氏 諸田政治 著 上毛剣術史(中)...
大胡氏 諸田政治 著 上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝 より 大胡氏は藤原鎌足を始祖として、その八代の孫鎮守府将軍俵(田原)籐太秀郷よりでている武門の名門である。田原の籐太秀郷は、天慶の乱に平将門を討ち取り、その勇名を馳せ、また大百足退治の伝説のある人物でもある。更にその秀郷より十代の孫に、勇将足利又太郎忠綱が出ている。この忠綱は傍系ではあるが。治承四年(1163)五月、源三位頼政謀叛のとき、宇治川の先陣を遂げて、その勇名を天下に轟かせた豪勇の武士である。「平家物語」巻四にその状況が次の様に鮮かに記されている。「・・・・坂東武者の習いとして、かたきを目にかけ河をへだつるいくさに渕瀬をきらう様やある。この河の深さは,やさとね河(利根川)にいくほどの、おとりまさりしはよもあらじ、つづけや殿原・・・・・」とあり、その勇姿が宛然眼に浮かぶようである。 更にそれより四代の孫重俊に至り,始めて大胡氏と称したと、上泉文書は語るのである。即ちこの人物が、大胡姓の始祖である.この重俊の嫡子大胡二郎成家に至って仏門に入ったと、上泉系譜に次のように記されてある。--成家大胡二郎出テ武家評林,従是倒義秀歴代未分明」とあり,どうも大胡二郎成家が仏門に入ったというのは事実のようである。応仁の乱時代の上泉義秀に至る間の歴代未分明とあるのは、上泉文書の謎であり、成家以後の大胡氏累代は仏門に入ったのではないかと執者は推理した。そこでなんとかして,古典特に上毛古文書を漁り、この謎解きをしてその穴を埋めたいと思ったのである。 先ず第一に、大胡二郎成家が武門を捨て,仏門に入った入った理由を少々探求してみたい。大胡家か武勇の家である事はすでに述べたし、古典軍記物が雄弁に物語っている。勇名な源平争乱の平治の乱を書いた「平治物語」巻第一に「・・・・上野国には大胡、大室、大類太郎・・・宗との兵二百人以下軍兵二千余騎とぞ記されける。」とあり,これが治承元年十二月二十七日の古典合戦記事である.また「義経記」にも「・・・・上野国には大胡太郎、山上さえよりの小太郎重房、同三郎重義、党には丹、横山、猪俣馳参る。」とあり、これが治承四年(1163)の合戦記事だ。そのほかでも、「平治物語」巻第四に「・・・続く人々大胡、山上,大室、深須」とあり、また十巻なも大胡三郎実秀の名がある。 また真名本曽我の鹿狩の巻にも大胡太郎の名が見える。等等数えあげればきりがない程に各種の合戦において上野国武門の最上位に、その名を連ねているので,いかに大胡氏の武門が名誉の家柄であったかが分明である。 案ずるに、大胡二郎成家は遠祖以来の討ちつ討たれつの戦場の明け暮れに、無常を感じ人生に嫌気がさしたものであろう。特に遠祖が参戦している源平両氏の戦い、即ち保元、平治両乱の、凄惨極まりない肉親相撃相殺の悲惨さなどは、眼もあてられない程に惨たらしい現実のものとして、捉えていたことであろう。現に上泉家系譜にも、田原籐太秀郷十代の孫足利太郎俊綱(忠綱父)が、桐生六郎なる郎党に欺かれて、その首を打ち取られた生々しい記事が次のように書かれている。「---足利太郎従五位下、治承五年郎党桐生六郎と云者伐主人首降参」この事件に関しては「吾妻鏡」に細かに記されているので、ここに要約して、説明しいおく。 源頼朝伊豆に挙兵の時、足利俊綱は重恩の平家に味方して、上野の国府に攻入り、源氏の館を焼き払った。上野国分寺はこの時焼失したという。この俊綱の郎党に、桐生六郎という者があった。頼朝勝利の後、主人俊綱を欺きその首を取り、持参して恩賞にあずからんとして頼朝に降ったが,頼朝はその不義を怒り、六郎の首を斬り俊綱の首と二つ並べてさらしたと記されている。この桐生六郎が桐生氏の祖である。 其のほかにも戦場にはつきもののの、筆舌につくせない惨酷悲惨な事情があったのだろう。これが武将として気の弱い、そして感受性の強い大胡二郎成家の菩提心を起こさせ、仏門に入った理由であろうと筆者はみたのである。そして懸命に古典や上毛古文書を漁ってみると,あった。筆者の感もまんさせらではない。あったのである。そしてこの謎の部分が見事に埋まったのである。次の様である。 「---上野国の御家人大胡小四郎義在京の時吉水の禅室に参じ上人の感化に預り・・・・」「大胡太郎実秀この消息を恭敬頂戴して一向に念仏す。寛元四年往生の時異香をかぎ、音楽を聞く者多かりき、実秀が妻室又ふかくこの消息のおしへを信受して称名の行、おこたりなくつゐに奇端をあらはし、往生の素懐をとげるとなん。」とある。 また上野国志には、「--成家子なくして弟成近が子隆義、隆義子実秀は法然上人に帰依念仏の行者なり。天正の比大胡常陸介高繁まで相続して比処に居す・・・」と記されており、成家が仏門に入ったことを、はっきり示していたのである。そして上泉文書にある成家以下歴代未分明とある謎の部分が見事に埋まり接続されたのである。こうして山形の米沢市に旧蔵される上泉文書の謎が、古典や上毛古文書の研究により、ぴったりと解明されたのであるから、これ程嬉しいことはない。祝杯をあげたい気分になった。おりしも正月五日の早朝である.この蚤の足跡のような事が、単純な筆者にはたまらなく嬉しいのである。読者よ、お笑い下さるな。 調子に乗って更に調査してみると,又あった。「尊卑分脈」に「成家-出家知明-法然上人弟子-往生人」とある。いよいよ成家が仏門に入ったことは間違いない事を確認した。案ずるに、この成家四代の孫、仏弟子沙門となった実秀の辺りでは、さすがに勇武の名門大胡氏も、気息奄々として、絶気に近い状態にあり、室町中期の享徳年間に至ったものであろう。・・・・さてこれからが重要である。 この大胡氏の衰亡して行く様を惜しみ心痛したのは、京都にあって足利将軍の連枝として、今を時めく伊勢、丹後、志麻の国守一色左京大夫義直である。それは何故か・・・・一色家は足利初代将軍となった足利尊氏に従って京都に攻め上る以前は、名門大胡家とは親戚であり、親しい同族であったからであると、上泉家口碑は伝えている。即ち義直は、その子義春の三男、一色源五郎義秀を上州に赴かせて、大胡家を復興にしめたのである。時は享徳二年(1453)応仁の大乱の始まる十四年の事である。この義秀に関しては別項に詳述するが、剛勇無双の人物で、祖父義直ゆずりの大江流兵学に長じ、また、京師においては,念流、中条流、京流名代の兵法者であったという。この義秀が,上泉氏の始祖であり、即ち剣聖信綱の曽祖父である。 这贴是存档,大家不用翻译了,当然谁心情好的帮忙翻译也感激不尽
作者:
真田豪
时间:
2006-2-22 23:57
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re:这个看来得等阿紫、宗秋他们这样的达人~~...
这个看来得等阿紫、宗秋他们这样的达人~~~``不过阿紫三月份就回国了,回国后至少有半年会很忙,不能上网~~~``宗秋这家伙神龙见首不见尾,也难得一见~~~``我想岛岛你最好还是直接用论坛短信或去宗秋的博客请教比较快点~~~
作者:
泥舟斋
时间:
2006-2-23 13:18
标题:
re:看开也只能这样了~~先写着后面的吧~~
看开也只能这样了~~先写着后面的吧~~
作者:
泥舟斋
时间:
2006-2-23 14:30
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re:それで当てぬように額の所へ一寸なり、二寸...
それで当てぬように額の所へ一寸なり、二寸なりの手前で止めるのである。修練すると、これが、だんだん近くなって、止まるようになるので、近ければ近いほど「よくつめた」と云って称めたものである。 又是一句,稍微好点是自己的理解是(如果想在額之所一寸前停下,必须在两寸之时停手。修炼中,越近越是难止住。由此才有了越近越有“屏吸之欲”这样的说法。
作者:
泥舟斋
时间:
2006-2-24 10:18
标题:
re:已经解决了~~感谢伟大的紫殿~~
已经解决了~~感谢伟大的紫殿~~
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