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标题: 写文求助(长期) [打印本页]

作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-5 10:55     标题: 写文求助(长期)

嘿嘿,那个。诸位大人都知道俺们第N外才是日语(N不小于5)

所以写文章都是靠翻译器的

但是翻译器毕竟是机器,翻译的有逻辑还成,没逻辑的就没办法了。

所以还是得请论坛里面各位大仙,大神们来帮助一下,帮我看看怎么翻译一些东西

御拜

诚谢

PS:在宣布封笔之前,此帖不定期更新。谢谢
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-5 10:59

请问这句话怎么翻译好?

 「第一四次に成りたる砲鉄は質粘靭にして気孔みず、しかれども灰色濃炎はいまだ免れぬといえども其微にしてほとんどまず可らず、この砲いまだ西洋に及ばざるありといえども相違ることどうして遠からんや」

我的想法是这么写

第十四次试验产生的铁质量粘稠,气孔较少。火焰呈深灰色。倒入铸模中后成为的炮身,可以和西洋人的火炮相比了。
作者: 苍真    时间: 2009-6-5 12:58

一看见ず啊ず的半古不白文就头大……
作者: 苍真    时间: 2009-6-5 13:38

第一四次に成りたる砲鉄は質粘靭にして気孔みず、しかれども灰色濃炎はいまだ免れぬといえども其微にしてほとんどまず可らず、この砲いまだ西洋に及ばざるありといえども相違ることどうして遠からんや

喵的,这里的难点就是“にして”,偏巧这个词组又有着截然相反的好几种解释……


第十四次做成的炮,其用铁铁质的密度、韧性均较好且又未发现气孔,但是,即使是以如此精密的工艺来制作至今却仍然无法避免有灰色浓烟的出现从而使得功败垂成。这种炮和西方现在的炮相比有如此差距这到底是为什么呢?

我瞎翻的尤其后半句云里雾里,你看看有用没……
作者: 云间舞鹤    时间: 2009-6-5 13:58

个人认为那个 どうして 没有疑问的意思,是个感叹词。
作者: 踏月追风    时间: 2009-6-5 19:20

后文是什么?
作者: 踏月追风    时间: 2009-6-5 19:26

我觉得
但是灰色浓烟虽然还是无法消除,但是已经很少。这炮虽不及西洋货,但是差距也不很远了。

我也不确定,具体看后文推敲下吧
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-5 20:45

这个没后文,不过从下文的部分来看,意义大概跟楼上的差不多
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-5 21:18

第一四次に成りたる砲鉄は質粘靭にして気孔みず、しかれども灰色濃炎はいまだ免れぬといえども其微にしてほとんどまず可らず、この砲いまだ西洋に及ばざるありといえども相違ることどうして遠からんや

第14次制成的炮,其铁质粘韧适度又无气孔,只不过还是避免不了灰色浓焰,这炮虽不及西方,但也差不太多了

まず一词不解
作者: 大意觉迷    时间: 2009-6-5 22:08

借此帖把五藤殿之前问我的一个问题的解答贴出来:

书名荷兰文原文:
Het Gietwezen in 'sRijks Ijzer-Geschutgieterij, te Luik
作者荷兰人胡根宁(Huguenin)
英文名:
The Casting Processes at the National Iron Cannon Foundry in Luik (present-day Liege)
Luik即现在比利时的列日,luik(荷兰文)/ Liège(法语)。是比利时的luik省会城市,靠近荷兰德国的省会城市。69.39平方公里,人口是20万,人口密度2800多人/平方公里,上海是2900。

这本书名在日文中有以下翻译:
リュージュ国立鋳砲所における鋳造方
ルイク国立鋳砲所における鋳造法
ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法

中国人有人翻译成:
王家莱克铸炮厂火炮铸造法
-------------------------------------------
似可翻译成:
列日(Luik)国立铁制火炮铸造厂铸造工艺
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-5 23:22

国营列日铸炮所铸造法
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-6 00:04

极其感谢诸君,诸君的帮助是鄙人奋发的动力

那么下面这句话谁能给帮忙看一眼?

藩内に利益の業を興さんとするに至りたりき。されど化学試験は着手し易くして
 成功し難く、よりて創設の後は捗々しきこともあらざりき。
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-6 00:19

藩内に利益の業を興さんとするに至りたりき。されど化学試験は着手し易くして成功し難く、よりて創設の後は捗々しきこともあらざりき。

到了大力发展藩内事业之时。(这句可能会和前一句有关)
但化学实验开始极易成功极难,因此创立后的进展并不十分顺利
作者: 踏月追风    时间: 2009-6-6 01:59

气孔可以理解为,密闭不漏气么
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-6 16:29

估计是指铁的密度和纯度吧
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-8 07:09

有点不明白的

第一:
佐賀多布施に幕府使用大砲の反射炉を建設する

是佐贺藩为幕府建立了多座大炮反射炉
还是佐贺藩为幕府建立多基反射炉?

第二:
这个洋人名
クルチュウス
怎么翻译好?

跪求解答

[ 本帖最后由 五藤高庆 于 2009-6-8 07:25 编辑 ]
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-8 13:45

在佐贺的多布施建设幕府用大炮的反射炉

人名  库鲁琼斯 或 库鲁求乌斯
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-9 10:13

常民(つねたみ)  は、 今(いま)  から180 年(ねん)  くらい 前(まえ)  、 佐賀藩(さがはん)  のお 役人(やくにん)  で  佐賀市川副町  (さがしかわそえまち)  の 早津江川(はやつえがわ)  近(ちか)  くに 住(す)  んでいた 下村(しもむら)  みつよしというお 侍(さむらい)  さんの5 番目(ばんめ)  の 子(こ)  どもとして 生(う)  まれました。

这个怎么翻译来?主要是常民家里是什么身份这点很重要
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-9 23:04

常民,是距今180年前,作为住在佐贺市川副町早津江川附近的一个叫下村光吉(名字根据读音无法断定)的佐贺藩公务员武士的第五个孩子而出生的。
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-10 10:10

请问这段怎么翻译

 「(彼らは・筆者注)蒸気車をシッポク臺のうえにてまはしてみせたり。5寸ばかりもあるべし。飛ぶがごとくにまはるなり。これはよき焼酎をもやして、それにてまわす車なり。ムスコウ(モスクワ)よりヘトル(ペテルブルグ)迄、280里(1,120km)を人500人をのせ、数艘の車をひきて一日にゆくと申すなり」

另:多谢诸君的帮助

[ 本帖最后由 五藤高庆 于 2009-6-10 10:41 编辑 ]
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-10 10:28

到蒸汽车上试着感受了一下。到处布满了铁钉。跑起来像飞一样。这是通过燃烧极佳的酒精才能开动的车。从莫斯科到圣彼得堡,280里(1120公里),就算载着500人,几辆车拉在一起的话,只要一天就到了
作者: 林飞影    时间: 2009-6-10 10:31

匪村  乃太强大
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-10 10:40

引用:
原帖由 绯村明月 于 2009-6-10 10:28 发表
到蒸汽车上试着感受了一下。到处布满了铁钉。跑起来像飞一样。这是通过燃烧极佳的酒精才能开动的车。从莫斯科到圣彼得堡,280里(1120公里),就算载着500人,几辆车拉在一起的话,只要一天就到了
等下,我修改一下,这回绯村公再看看

[ 本帖最后由 五藤高庆 于 2009-6-10 10:42 编辑 ]
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-10 10:42

是不是 “笔者注” 他们说到蒸汽车上试着感受了一下。到处布满了铁钉。跑起来像飞一样。这是通过燃烧极佳的酒精才能开动的车。从莫斯科到圣彼得堡,280里(1120公里),就算载着500人,几辆车拉在一起的话,只要一天就到了
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-11 08:56

(他们)到蒸汽车上试着感受了一下。到处布满了铁钉。跑起来像飞一样。应该是通过燃烧极佳的酒精才能开动的车。从莫斯科到圣彼得堡,280里(1120公里),就算载着500人,几辆车拉在一起的话,据说只要一天就到了
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-11 09:11

多谢

大意请帮忙看一下这些是什么东西?

モーズレー式足踏旋盤

原始的な手回し轆轤(ろくろ)と、もみ鑚

[ 本帖最后由 五藤高庆 于 2009-6-11 09:24 编辑 ]
作者: 大意觉迷    时间: 2009-6-11 09:19

http://www.h5.dion.ne.jp/~s1868/0015.htm

Henry Maudslay式脚踏车床
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-11 09:26

那么这个是什么钻?

原始的な手回し轆轤(ろくろ)と、もみ鑚
作者: 绯村明月    时间: 2009-6-11 18:19

就是手动滑轮和锥子。
作者: 五藤高庆    时间: 2009-6-17 08:40

文章就要完成了,还有一点内容,请问这个怎么翻译

 「当地にては薩長土の三藩を恐れるけど、三藩の武器は精良を欠く、今回佐賀藩士七〇名、足軽八五人を連れ来るのみなれど、もし三藩と勝負すべく仰せつけらるうならば足軽の銃隊半数の四〇名にてこれを打ち伏せてご覧に入れん」

[ 本帖最后由 五藤高庆 于 2009-6-17 08:46 编辑 ]
作者: 五藤高庆    时间: 2009-8-17 09:06

请问这个怎么翻译谢谢

だが、1883年頃から政府の圧力が強まり、加えて自由党の板垣退助の洋行問題を巡る疑惑追及を行うと、逆に自由党側からも前島や尾崎・犬養と関係が強く同党の機関紙となっていた郵便報知新聞などが政府の資金を受けているとの疑惑が出されて[要出典] 岩崎弥太郎を海坊主になぞらえた[1]「海坊主退治」キャンペーンが繰り広げられたことから、泥仕合となった。
作者: 绯村明月    时间: 2009-8-18 04:56

但是,1883年前后,随着来自政府的压力的不断加大以及追查自由党板垣退助的洋行问题的深入,却引出了与前岛、尾崎、犬养等人有密切关系的已然成为自由党党报的《邮便(邮政)报知新闻》从政府处获得资金的疑点。一时间,岩崎弥太郎成了不祥人,“打倒不祥人”的活动声势逐渐增强,演变成了相互揭短的局面

海坊主 的解释是否为 不祥人 不确定,但总的意思差不多。

[ 本帖最后由 绯村明月 于 2009-8-18 04:57 编辑 ]
作者: 五藤高庆    时间: 2009-8-19 08:42

海坊主看了解释,应该是日本神话里的一种光头大海怪

另外对下文求翻译,我这样劳烦诸君实在抱歉。跪拜,诚谢

 「この学校は決して一人のものではない。国のものである。社会のものである。・・・私の従来の希望は少し大胆な企てのようであるが、どうもこの学問の独立をみたいということである。・・・大学でまでならずとも、大学に近い、・・・あるいは大学となるかしらぬが、学科をだんだん増やしていくということになったならば、私の充分満足するところ、また社会に対しても非常の面目、またこの学校の校友あるいは学生諸君においてもはなはだ栄誉とするところである。」
作者: 绯村明月    时间: 2009-8-21 00:44

海坊主的书面意思当然在哪都能查得到。
主要是引申含义。。
总不能说“岩崎弥太郎成了光头大海怪”。。。啥意思?谁知道?

这所学校绝非一人之物,乃为国家所有。为社会所有。。。。虽然我的设想多少有些大胆,但是无论如何我都希望这门“学问”独立开来。。。。就算不能成为大学,至少也不能差得太远。。。。能不能新设为大学先放在一边,只要漫漫的增设学科,不光我会感到非常满意,对社会的贡献,以及诸校友,诸位同学也会感到荣耀。

学问 一词 词义不确定
作者: 五藤高庆    时间: 2009-8-21 03:05

引用:
原帖由 绯村明月 于 2009-8-21 00:44 发表
海坊主的书面意思当然在哪都能查得到。
主要是引申含义。。
总不能说“岩崎弥太郎成了光头大海怪”。。。啥意思?谁知道?

这所学校绝非一人之物,乃为国家所有。为社会所有。。。。虽然我的设想多少有些大胆, ...
因为岩崎弥太郎是靠海运起家的,又是财阀巨头,所以他的对手起了这么一绰号挪揄他而已。
作者: 大意觉迷    时间: 2009-8-21 12:35

应该不译,然后注释解释。
作者: 五藤高庆    时间: 2009-12-21 00:44

准备新文好交租。可是又出来个问题。不知道可不可以给看一下?文中那几个荷兰人名都很头疼

重豪は、20歳の頃より、オランダ語やオランダ文物に興味を持ち、歴代のオランダ商館長と親しく交際し、チチング、ズーフ、ブロムホフとは度々書信を交換した。特にシーボルトとの交際は、シーボルトの『江戸参府紀行』に4回に亙って、記録されている。

还有这一段

百姓は籾高1石につき4斗1合の租米だったから8公2民の割であったが、実は5斗近くも収奪されたので、農民常食は米1、唐芋5、粟3、麦・ソバ1という悲惨な状態が一般的だった。

[ 本帖最后由 五藤高庆 于 2009-12-29 04:13 编辑 ]
作者: 绯村明月    时间: 2010-1-14 18:24

重豪从20岁左右开始对荷兰语及荷兰文物发生兴趣,同历代的荷兰商馆长都有深交,同Isaac Titsingh、Hendrik Doeff、Jan Cock Blomhoff等人经常有书信来往,特别是同Philipp Franz von Siebold的交往,被4次记录在Philipp Franz von Siebold所著《江户参府纪行》中

回国刚回日本。才看到。。
不知道是不是晚了。。。
作者: 五藤高庆    时间: 2010-1-24 00:17

引用:
原帖由 绯村明月 于 2010-1-14 18:24 发表
重豪从20岁左右开始对荷兰语及荷兰文物发生兴趣,同历代的荷兰商馆长都有深交,同Isaac Titsingh、Hendrik Doeff、Jan Cock Blomhoff等人经常有书信来往,特别是同Philipp Franz von Siebold的交往,被4次记录在Phil ...
没,不晚,我这个租子还没交呢。其实我更想知道的是下面这段

百姓は籾高1石につき4斗1合の租米だったから8公2民の割であったが、実は5斗近くも収奪されたので、農民常食は米1、唐芋5、粟3、麦・ソバ1という悲惨な状態が一般的だった。

这段理解起来很困难。大意是农民生活悲惨。但是里面有个问题
首先一石米收4斗1合,这也不是八公二民啊。而且他说近5斗,我理解是5斗被收走,可这也不是八公二民。一石米应该是10斗,这是四公六民或者五公五民的大善政啊。为什么又出来个八公二民呢?
其次是他说是米1地瓜5,这是什么单位啊,是米一把地瓜五个还是米一斗,地瓜5斗?
另外你刚回来,还没休息就过来给我解答,不胜惶恐

[ 本帖最后由 五藤高庆 于 2010-2-18 01:49 编辑 ]
作者: 五藤高庆    时间: 2010-2-18 01:52

求以下这段话
日本では古来から砂鉄を用いた「たたら製鉄」による鉄(和鉄)の生産が行われていました。特に山陰地方のたたら製鉄による和鉄の供給は鋳砲事業に使用する鉄の確保に十分な量でしたが、実際に和鉄を鋳砲に使用してみると、うまく溶けず、また鋳造した大砲も脆く使用に耐えるものではありませんでした。大砲の鋳造には炭素含有量が4%程度の柔軟で溶けやすい銑鉄(鋳鉄)が大量に必要ですが、たたら製鉄による和鉄は、砂鉄を比較的低温で還元させるため、炭素の含有量が極めて少ない錬鉄であり、また不純物の除去が不十分で品質にばらつきがありました。そのため、和鉄を使用するためには、和鉄の精選を行い、「甑(こしき)炉」で溶かして鉄の性質を変えてから反射炉に使用していました。幕府や佐賀藩では和鉄が鋳砲に流用できると考えて熔鉱炉を建設していなかったため、鋳砲用の銑鉄の供給に支障をきたしたようで

[ 本帖最后由 五藤高庆 于 2010-3-17 10:34 编辑 ]




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